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松本城の歴史をわかりやすく答えます!旅行前にチェックで完璧

公開日:2021.10.22 更新日:2022.11.09

目次

日本アルプスを背景にそそり立つ立派な松本城は、お城ファンでなくても惹かれます。戦国時代より、信州の地は、戦国武将たちの野望が渦巻く地でした。

そのため、松本城は、城主が次々と目まぐるしく変わっていきました。血なまぐさい歴史があるにも関わらず、国宝松本城はその美しい姿を見せています。

今回の記事では、ものすごくわかりやすく松本城の歴史をご紹介します。ぜひ参考にしてください。

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Pokke編集部
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松本城の歴史を1から知ろう「どのように建ち、今に至ったのか?」

松本城の歴史①「松本城の歴史は深志城から始まる」

昔から、信濃国深志郷を治めていたのは坂西氏で、そのまわりに人々が暮らしていました。

室町時代(1504年)、島立家がそこに深志城を建てました。

ここから松本城の歴史が始まります。

松本城の歴史②「武田信玄が32年間、深志城を拠点に」

戦国時代、武田信玄は信濃侵攻への足がかりのため、その当時の城主である小笠原長時を深志城から追い出しました。

1582年に織田信長が武田信玄を滅ぼすまでの32年間、この城を治めました。滅んだ武田信玄の後には、小笠原洞雪が深志城に入ります。

松本城の歴史③「武田信玄に追い出された小笠原長時の子供が城を奪還」

小笠原長時の子である貞慶は、松本城から小笠原洞雪を追い出し、父の恨みを晴らし、城を奪い返しました。

ちなみに小笠原長時と小笠原洞雪は兄弟で、小笠原貞慶は、洞雪とは叔父甥の関係になります。

戦国時代を絵にかいたような話です。

松本城の歴史④「松本城という名前が、初めて歴史に登場」

小笠原貞慶は、深志城を松本城と改め、ここに歴史上、はじめて松本城という名前が登場しました。

貞慶は、城と城下町の整備に手を付けます。

松本城の歴史⑤「松本城の天守が完成」

徳川家康が関東に移る時、小笠原貞慶も8年間いた松本を去り、古河に移りました。その後城主になったのは石川数正です。

彼は、元々は家康の家臣でしたが、1585年、大阪へ出て秀吉の家臣になった人です。家康を裏切ったとか、いや家康のスパイとして送られたとか、この人物評は分かれます。

石川数正と康長親子は小笠原貞慶が始めたお城の整備を引き継ぎ、城下町をさらに発展させました。

今ある形の松本城天守がこの時代に完成しました。

松本城の歴史⑥「江戸時代、松本城は徳川家と深いつながりがある」

江戸時代、松本城の城主は、6家にわたりました。在任期間は、はじめは短く、1726年に城主になった戸田氏は、大政奉還までの145年間、城主をつとめました。

城主をつとめたそれぞれの一族は、徳川家と深い関係でした。松本城は、徳川幕府にとって信州の要の城であったことを示しています。

松本城の歴史⑦「明治維新の混乱を乗り切って、生き残る」

江戸時代またはそれより前に建てられた天守のうち、現代まで保存されている天守は、全国で松本城を含めて12しか残っていません。

江戸時代の1国1城令による取り壊し、災害や失火などによる焼失や倒壊に加えて、幕末から明治維新にかけての混乱で多くの天守が壊されました。

松本城も、明治維新後、競売にかけられ売却、解体の危機に直面しますが、住民たちが力を合わせ、破壊されずに済みました。

そのおかげで、今も当時のままの城を見ることができます。

松本城の歴史⑧「史跡指定、国宝指定、そして昭和の修理を経て蘇る」

松本城は、昭和5年に国による史跡指定を受けました。その後、昭和11年に国宝の指定を受けますが、戦後、昭和27年、再び国宝に指定されました。

江戸、明治時代にも修理は行われましたが、昭和25年から30年にかけて大がかりな解体修理が行われ、基礎を鉄筋コンクリートにし、天守の傾きが正されました。

2.松本城の城下町に関する歴史!どのように発展したのか?

城下町の歴史①「小笠原貞慶の時代」

天正13年(1585年)より小笠原貞慶は、城の整備に加えて、堀を掘って土手を築き、四方に5カ所の城門を作り、城下に道を引き、侍屋敷を建てました。城下町の基本設計ができ上がりました。

松本城の歴史②「石川数正、康長父子の時代」

小笠原貞慶によって始められた城下町の整備は、石川数正、康長父子によってさらに進みました。

石川氏によって作られた、町の東西南北の入り口を守る4つの十王堂のうち、餌差町の十王堂には、十王の像が残っています。

今なお、睨みを利かせて城下町を守っています。

3.旅行前にチェック!松本城の見どころを徹底紹介

松本城の見どころ①「別名 烏城のいわれ」

松本城は天守が黒いことが特徴で、烏城(からすじょう)とも言われています。白亜の天守で有名な姫路城は、別名白鷺城と呼ばれていますから対照的です。

大阪城は白黒どちらかご存知でしょうか。大阪城は、豊臣秀吉の好みを反映して、金が映えるよう、黒漆の壁です。松本城もそれにならっていますが、それは、秀吉への忠誠心を表しています。

城の色を見ると、城を作った時、家康か秀吉のどちらが城づくりにかかわっていたかがわかります。

松本城の見どころ②「松本城では2種類の城を一度に楽しめる」

松本城は、戦国時代の戦いのための天守と江戸時代の戦いとは無縁の優雅な櫓が共存しています。

大天守、渡櫓、乾小天守には、戦いのための鉄砲や弓のための円形、三角形などの穴が115カ所もあって、まさに戦うための城で、戦国時代の特徴です。

一方、辰巳附櫓、月見櫓には、戦うための設備がほとんどなく、朱塗りのまわり縁や船形天井が優雅です。1つのお城で違う時代のお城を楽しむことができるんですから嬉しいですね。

4.松本城をめぐるミステリー「傾いていたのは呪い?」

松本城は、昭和の修理まで、西南方向に傾いていました。いくら修理してもなおりませんでした。

1686年、時の城主の厳しい年貢取り立てに抗議して一揆をおこしたリーダー多田加助の呪いによって傾いていると考えられていました。

加助は、一揆を扇動したということではりつけの刑になりましたが、死ぬとき、天守に向かって呪いの言葉を投げかけ、そのため天守が傾いたと恐れられてきました。

実際は、地盤が軟弱なうえ、支える柱の老朽化が原因でした。昭和の修理で、鉄筋コンクリートで地盤を強化したことで傾かなくなりました。どんなお城にも、こういうミステリーはあるものですね。

最後に

松本城の歴史を簡潔にまとめてみました。松本城を見に行く前に、知っておきたいことは漏らさずまとめました。

それらを知っているかどうかで、松本城を見る目も違ってくるのではないでしょうか。

観光をより楽しむことができる松本城の音声ガイドも販売されているので、ぜひこちらも参考にお出かけください。

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