佐渡金山~400年の歴史を持つ巨大な金山と、悲哀の歴史
北沢浮遊選鉱場跡、坑道跡、荒れ果てた墓
佐渡金山は、1601年に山師3人により開山された事が始まりだと伝えられている。
約400年に及ぶ長い歴史を持った金山だ。
江戸幕府の財政を支え、日本産業の近代化に貢献し、日本最大の金銀山として発展した。
しかしその栄華の裏で、悲哀の歴史が生まれていったのも事実だ。
朽ち果てたコンクリートの遺構は、まるで古代遺跡のようだ。
蔦が這い、草木が芽吹き、人工物を自然が侵食する。無機物と自然の対比。
生と死。
これぞ廃墟の醍醐味のひとつである。
建て直されたり整備されたり、色が塗り直されたり、元あるものの姿を損なうような修繕は廃墟としての美しさを損なう。
その点、北沢浮遊選鉱場跡の保存のあり方は素晴らしいと思う。
佐渡金山の始まりは、1601年(慶長6年)。
鶴子銀山の山師3人により金脈が発見されたのが始まりだという。
佐渡奉行大久保長安の管轄となるが、明治に入ると一時的に宮内省御料局に所属し、その後三菱合資会社に払い下げられる。
大正時代に入ると三菱鉱業株式会社(現・三菱マテリアル)に引き継がれ、昭和時代には金の大増産時代に突入していく事となる。
世界初の浮遊選鉱法を実用化した北沢浮遊選鉱場跡の『浮遊選鉱』とは何だろうか。
これは選鉱法のひとつだ。
鉱山資源として地中から掘り出される鉱石は、一般的に様々な鉱物が細かく混じり合っているのでそのままでは精錬所に送る事は出来ない。
そこで鉱石を細かく砕き、各粒子が単一の鉱物からなるように『単体分離』を行わなくてはならない。
そこに水と油性溶液が混じったものを加え攪拌すると、水に対する親和性が高い岩石の粒子は水がついて沈み、水に対する親和性が低い金属の粒子は油性溶液にまとわりついて浮き上がる。
それが浮遊選鉱法の原理だ。この原理は金属だけではなく、粘土など他の物質の選別にも応用出来る。
一ヶ月で50,000トン以上の鉱石を処理出来ることから『東洋一の浮遊選鉱場跡』と呼ばれた、巨大な近代遺産の象徴。
金銀採取の実用化に成功したのは、ここが世界で初めてだった。
北沢浮遊選鉱場跡のすぐ隣に、まるでローマのコロッセオを彷彿させるような巨大な遺構がある。
これはシックナーといい、泥場の鉱石と水を分離する施設だ。
1940年(昭和15年)に完成した直径50メートルの巨大なシックナーは、濁川上流にある間ノ山搗鉱場から排出された泥状の金銀を含んだ鉱石を分離し、北沢浮遊選鉱場に送った。
シックナーだと言わなければ、何も知らない人は本当に昔の遺跡だと勘違いしてしまうかもしれない。
視点を変えて、北沢浮遊選鉱場跡を街の上から眺めてみる。角度を変えるとまた違った遺構の魅力見えてくる。
この日は時折雨粒が落ちる鉛色の空模様だったが、朽ち果てたコンクリートには高らかと澄み渡る青空よりも暗鬱な鉛色の空の方が合っているかもしれない。
いつまでも見つめていたい。
後ろ髪は惹かれるが、次の遺構を見に行く事にしよう
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