グラバー親子と日本近代化を巡る旅
2. 父・グラバーと日本近代化
「グラバー親子と日本近代化を巡る旅」では、主に長崎県で活躍したグラバー親子、父・トーマス・ブレーク・グラバーと息子・倉場富三郎について4つのパートに分けてご紹介します。記事を通して、グラバー親子がどのような人物なのか、どのように日本の近代化を一気に推し進めたのか、歴史や背景と共にご紹介します。
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本パートは「父・グラバーと日本近代化」について。
この記事では、グラバーの起こした近代化にかかわる事業と、彼のプライベートについてご紹介します。
グラバーが炭坑、修船場、ビールの経営をしたこと、グラバーの財力や結婚相手・ツルのことがわかります。
1. グラバーの事業は日本の近代化を一気に推し進めた
父・グラバーは明治維新に貢献した商人の顔だけではなく、日本近代化にかかわる起業家としての顔も持っています。
特に明治維新後は主に長崎でたくさんの事業を立ち上げました。
グラバーの事業は長崎だけでなく、日本の近代化を一気に推し進めたのです。
それでは、その過程を順番に見ていきましょう。
2. 起業家としてのグラバー
グラバーの起こした主要な事業を、年代ごとにご紹介します。
1868年|100年以上続いた炭坑 高島炭坑
長崎県沖に浮かぶ高島では、江戸時代の1695年に石炭が発見されていました。
開港後の1868年、蒸気船の燃料となる石炭の需要が増えます。
このため、グラバーは佐賀藩と共同で海洋炭鉱開発に着手。
日本で初めての洋式竪坑「高島炭坑(北渓井坑)」を建設し、近代的炭坑として発展していきました。
非常に良質な石炭は「黒ダイヤ」と称されたほどで、石炭採掘の最盛期は昭和30〜40年になります。
国の石炭政策変更により、1986年に閉山しましたが、それまでは第一線で活躍する炭坑でした。
1869年|愛された修船場 ソロバン・ドック
この施設の正式名称は「小菅修船場跡」です。
長く引かれたレールの上に、小さな曳き揚げ機械の渡るさまが算盤のように見え、地元では「ソロバン・ドック」と呼ばれています。
このソロバン・ドックができたことによって、たくさんの船が修理されました。
当時日本に流通していた船は西洋で建造された輸入品です。
船は中国を経由して運ばれることから、故障も多々生じてきます。
この事態を危惧したグラバーは1866年に修船場を作ろうと思い、五代友厚、小松帯刀らに声をかけました。
彼らにも出資をしてもらい、グラバー自身が経営者となります。
1869年3月には明治政府に買収され、官営長崎製鉄所の付属施設となり、外国人技師によって運営されました。
1870年|グラバー商会倒産、三菱との関わり
1868年、戊辰戦争の一つである「鳥羽伏見の戦い」が勃発。
グラバーはこれを見越して大量に武器や船を仕入れますが、大規模な戦いにはならず、資金繰りに苦戦します。
そのため1870年にグラバー商会は倒産してしまいました。
高島炭坑は人手に渡って官営化し、後藤象二郎に払い下げられ、再び民営化します。
この時、国際取引に必要な知識を持つグラバーはもう一度経営者として高島炭坑に勤めました。
1881年には三菱商会が高島炭坑を買収。
グラバーは三菱商会の創業者である岩崎弥太郎からの期待に応え、瓜生震とともに炭坑を経営しました。
その後、グラバーは三菱の渉外関係顧問として呼ばれ、東京で暮らすようになります。
1885年|現在のキリンビール ジャパン・ブルワリー・カンパニー創設
1884年、アメリカ人のコープランドが日本で設立したビール会社「スプリングバレー・ブルワリー」が倒産してしまいます。
グラバーはビールの需要を感じ、岩崎弥太郎を始め出資者を集め、1885年に「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」を創立します。
その初代社長にグラバーが就任しました。
ビールはドイツ産と並ぶほどの品質を目指し、原料からびんの細部に至るまでドイツから輸入しました。
1888年「キリンビール」を発売。
ラベルは東洋の霊獣・麒麟のイメージ画を採用しています。
麒麟を提案したのはグラバーで、その理由として坂本龍馬をイメージした、家の狛犬をイメージした、など諸説あります。
「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」はのちに三菱に買収され、麒麟麦酒株式会社として大きな企業となります。
3. グラバーの結婚と晩年
20代のはじめからずっと日本で商売をしていたグラバーは、日本を非常に気に入っていたと考えられます。
そんなグラバーのプライベートはどんなものだったのでしょうか。
グラバーの近代化への興味
東京で新橋から横浜間を走る蒸気機関車が完成する七年も前のことです。
グラバーは、数百メートルにおよぶ線路を敷き、上海の展示会で購入した蒸気機関車をみんなの前で走らせました。現在の長崎市大浦海岸通りです。
この蒸気機関車は「アイアン・デューク(鉄の男爵)」と呼ばれました。小型のもので、二両の車両しかありませんでした。
また、グラバーは大砲を家の前に飾りとして置いていたというエピソードがあります。
「南山手のグラバー邸前に設置された大砲を捉えた写真があり、いかにもそこで武器を陳列していたように見える。」
出所:【公式】グラバー園ウェブサイト, EPISODE 南山手秘話, episode90
実際は武器などを公にしてはいけないと条約で定められていましたので、日本人に売るためのものとは考えられません。
そのためこれらの蒸気機関車や大砲などは、グラバーの日本近代化への強い興味と、財力をあらわすものだったと考えられます。
グラバーの愛妻・ツルと子ども
グラバーには何人かの恋人がいましたが、結婚したのは淡路屋ツルです。
ツルは嘉永4年(1851年)、大阪の造船屋「淡路屋」の生まれ。
グラバー以前に豊後の山村国太郎の元に嫁ぎ、一人娘を出産しましたが、離縁しています。
その後芸者となり、グラバーと出会ったようです。
グラバーは倉場富三郎を連れてツルと一緒になりました。
ツルはグラバーとの間にできたハナという長女を出産。
ツルはグラバーが三菱の渉外関係顧問になった際、一緒に上京し、グラバーの生活を支えています。
明治32年(1899年)47歳で亡くなり、東京の大平寺に埋葬されました。
グラバーは生涯の伴侶ですが、当時外国人と法律的に結婚はできなかったので、戸籍を一緒にしていません。
グラバーはツルとの死別後、恋人を作らずに生涯を終えました。
グラバーの最期
グラバーは晩年東京で働きましたが、いつか長崎に帰りたいと考えていたようです。
グラバーの息子・倉場富三郎は、長崎のグラバー邸を住居としていました。
父がいつか帰ってくると思って手紙にこのような内容を書いて送っています。
「外壁の塗り替えと屋内電灯の取り付けを見積もり中です。塗り替えは200〜250円がかかると思います。この二つの仕事は極めて必要だと考えおり、あなたがすぐ許可してくださることを確信しています。あなたのお部屋の壁紙をどうぞ選んでください。」
出所:【公式】グラバー園ウェブサイト, EPISODE 南山手秘話, episode100
グラバーはグラバー邸のベランダの椅子に座り、港をゆっくり眺めたいという願望がありました。
しかし、長崎へ帰ることはなく、東京で死没します。
1911年(明治44年)12月16日のことでした。
グラバーとツルの墓は現在、長崎市内の国際墓地に埋葬されています。
4. もっと深められる舞台と本2選
最後に、グラバーについて理解を深められる舞台と本を2選ご紹介します。
プッチーニ 蝶々夫人
プッチーニのオペラで有名になった『蝶々夫人』の蝶々夫人のモデルは、長らくツルではないかと言われています。
物語は史実と大きく異なりますが、丘の上の邸宅や、芸者といった設定が似通っています。
何より、ツルは蝶の紋を好んで使用し、「蝶々さん」と呼ばれていました。
原作者のロングは、おそらく聞いた日本の話を織り交ぜて創作したのではないかと言われています。
現在、原作の小説は全文が公開されています。また、オペラも幾度となく再演される人気の舞台です。
姉崎慶三郎『幕末商社考』
幕末から明治にかけての亀山社中やグラバー商会といった商社の誕生。
これらの商社は現代の日本でも影響を及ぼす大きな存在になっています。
『幕末商社考』は影響を及ぼした商社にかかわる坂本龍馬、小栗上野介、トーマス・グラバー、三野村利左衛門、岩崎弥太郎の五人の言葉と仕事ぶりを集めた本です。
幕末における商社がどのようなものだったのか知れるほか、仕事のモチベーションも上がる一冊です。
5. グラバーは起業家として働くことで、日本の近代化に大きく貢献した
父・グラバーが立ち上げた事業は、その多くが日本で長く続いた重要なものになりました。
グラバーは起業家として働くことで、日本の近代化に大きく貢献したのです。
プライベートでは淡路屋ツルと結婚し、長男・倉場富三郎と長女・ハナという子宝に恵まれました。
青春時代を過ごした長崎を気に入り、晩年は長崎へ帰りたいと思っていたグラバーでしたが、その願いは叶わず東京で生涯を終えました。
次回はグラバーの息子、倉場富三郎に焦点を当ててご紹介します。
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