グラバー親子と日本近代化を巡る旅
3. 子・倉場富三郎の功績と悲劇
「グラバー親子と日本近代化を巡る旅」では、主に長崎県で活躍したグラバー親子、父・トーマス・ブレーク・グラバーと息子・倉場富三郎について4つのパートに分けてご紹介します。記事を通して、グラバー親子がどのような人物なのか、どのように日本の近代化を一気に推し進めたのか、歴史や背景と共にご紹介します。
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本パートは「子・倉場富三郎の功績と悲劇」について。
この記事では、倉場富三郎の生涯をご紹介します。
倉場富三郎は実業家、水産学者として日本の水産学に大きな功績を残したこと、日英の架け橋となってゴルフ場やクラブを結成したことがわかります。
1. 倉場富三郎は起業家であり、水産学者だった、日英の架け橋的存在
今回はグラバーの息子、倉場富三郎に焦点を当てていきます。
倉場富三郎はグラバーと同じく起業家のほか、水産学者という顔をもち、多才な人物でした。
日英ハーフの倉場富三郎は、自らのアイデンティティを日本人だと認識し、日英の架け橋となる活動も行いました。
しかし、倉場富三郎は悲劇的な最期を迎えます。
倉場富三郎がどのような生涯を送ったのか、ご紹介します。
2. 倉場富三郎の生涯
1871年|倉場富三郎の誕生
倉場富三郎は1871年、長崎で生まれました。
本名はトミサブロー・アワジヤ・グラバーです。
しかし、墓標にはトーマス・アルバート・グラバーと刻まれています。
父・グラバーにとっての長男となりますが、産みの母親は淡路屋ツルではありません。
淡路屋ツルよりも前の内縁の妻、加賀マキといいます。
加賀マキについては詳細がよくわかっていません。
ただし、富三郎が母親について「加賀マキ」と書き込んでいる公的文書が現存しています。
1888年|倉場富三郎、アメリカへ留学
富三郎は1881年、長崎の東山手にある「加伯利(カブリ)英和学校」に入学。
1884年には、東京の学習院に入学します。下宿先は岩崎弥太郎の私邸でした。
入学当初はトップクラスの成績でしたが、だんだんと下降していったようです。
その原因は日英のハーフだったからと考えられるでしょう。
「多感な少年時代、父の名声や威光があったにもかかわらず、混血児というただそれだけで級友たちにからかわれ、学校に嫌気がさしていったと推察される。」
出所:ナガジン, グラバー邸のもう一人の住人、倉場富三郎
そんな富三郎ですが、学習院を卒業した同年秋、オハイオ州ウエスレヤン大学へ留学します。
2年後にはペンシルバニア大学医学部予科の生物学課程へ入学。
主に水産学の勉強をして日本に帰国しました。
1892年|富三郎、リンガー商会へ入社、トロール漁業を興す
1892年に帰国した富三郎は日本国籍を取り、公式に「倉場富三郎」と名乗るようになりました。
同年、ホーム・リンガー商会に入社しました。
ホーム・リンガー商会はホーム氏とリンガー氏の合同会社。
リンガー氏はグラバー商会にスカウトされ働いた経験があり、親交がありました。
同時に富三郎は長崎汽船漁業会社を設立。
長崎汽船漁業会社はホーム・リンガー商会の新規事業、現在で言う社内ベンチャーです。
この会社で富三郎は1902年に日本初の鋼鉄トロール船である「深紅丸」を輸入し、トロール漁業を開始します。
トロール漁業とは、トロール網という大きな網を引いて一気に大量の魚を捕獲する漁業。
富三郎は日本で初めてこのトロール漁業を導入した人物です。
1899年|倉場富三郎、中野ワカと結婚
グラバーは1899年に中野ワカと結婚します。
中野ワカはグラバーと親密だったイギリス商人のジェームズ・ウォルターの次女。
ワカの母親は中野エイという日本人女性で、中野ワカも倉場富三郎と同じ日英ハーフであることがわかります。
元々ワカは富三郎の留学中にグラバー家に養女として引き取られていました。
「ウォルターと中野エイとの間には、1875(明治8)年に誕生したワカを含む3人の子供はいたが、1887(明治20)年2月、彼は家族を捨ててアメリカ人女性ハリエット・ウィンと結婚した。これを機に、ウォルターはまだ12歳だったワカの面倒を見て欲しいと友人のトーマス・グラバーに依頼した。」
出所:【公式】グラバー園ウェブサイト, EPISODE 南山手秘話, episode93
ワカは養母ツルからとても可愛がられており、ツルが亡くなってすぐに富三郎と結婚しました。
お互い、見た目は外国人なのに和装をする者同士、通じあうものがいくつもあったのでしょう。
富三郎とワカは子宝に恵まれなかったものの、仲睦まじい夫婦だったと言われています。
1912年|『グラバー図譜』に着手
出典: Amazon
通称『グラバー図譜』と呼ばれるこの図譜は、『日本西部および南部魚類図譜』が正式名称です。
『グラバー図譜』は日本四大魚譜のひとつに数えられています。
誤解されやすいのですが、図譜はグラバーが作ったのではなく、倉場富三郎の功績です。
700枚の図譜に描かれた魚は558種類にも及び、そのほか123枚の貝と鯨の図譜も含まれます。
富三郎は大学時代から魚に関心を持っており、日本の魚の詳細な図譜を残したいと考えていたのです。
魚市場で魚を仕入れた富三郎は、5人の画家を雇い、グラバー邸で写生させました。
完成までに20年かかったこの図譜は長崎だけではなく、日本の水産学に大きく貢献しました。
1912年〜|倉場富三郎、日英との架け橋に
富三郎は1912年に雲仙天草国立公園の中にゴルフ場を誘致します。
日本初のパブリックコースの誕生です。
国内だけではなく、国外からもたくさんの観光客を呼び込みました。
富三郎は自らが発足した英国紳士クラブ「長崎内外倶楽部」からこのゴルフ場の意見を汲み上げました。
長崎内外倶楽部は、さらなる社交場を目指して出島へ移転。
富三郎は長崎内外倶楽部の内部から「長崎ロータリークラブ」を結成しました。
長崎ロータリークラブは地域社会と外国人との交流を図る親睦団体です。
この二つのクラブのうち、長崎内外倶楽部の施設は現在も残されています。
このように日本と外国人との親交を繋げた富三郎自身は、袴などの和服を愛用し、英国の格好はほとんどしませんでした。
富三郎は外国人がなることができない諏訪神社の氏子にもなっており、地域社会と上手く馴染んでいたことがわかります。
1945年|倉場富三郎、自ら命を絶つ
父・グラバーに負けず劣らず、日本の近代化に貢献し、さらに日英の友好に尽力した富三郎ですが、晩年は不遇でした。
1939年、富三郎とワカはグラバー邸を三菱へ売却し、南山手9番地へ引っ越しました。
グラバー邸から戦艦の造船場を一望できるため、スパイ容疑をかけられたのです。
引っ越し先でも監視の目が光り、あまり自由にできなかったようです。
さらに、1943年には愛する妻・ワカが先立ってしまいました。
1945年には貢献してきた長崎に原爆が投下されます。
富三郎は終戦直後の1945年8月26日、自ら首を吊って縊死してしまいます。
残された遺産の一部は長崎市の復興のために寄贈するよう遺書が残されていました。
3. 倉場富三郎を知る本2選
富三郎についてより深く知れる本を2冊ご紹介します。
倉場富三郎『グラバー魚譜200選』
富三郎が編纂した『グラバー図譜』を初めて書籍化した本です。
現在、長崎大学附属図書館が所蔵している図譜の中から選りすぐりの魚譜を掲載しています。
限定1000部で発行され、現在は高値で売買されている本です。
地域図書館に所蔵している場合もあるので、探してみてはいかがでしょうか。
山口由美『長崎グラバー邸父子二代』
父・グラバーが注目されがちですが、この本では富三郎にも大きく焦点を当てて紹介しています。
著者もむしろ富三郎の方に興味を持ったと語っています。
グラバーと富三郎の生涯が時系列でわかり、お互いがどのような動きをしていたかよくわかります。
晩年の富三郎についても記述が多くあります。
4. 倉場富三郎は水産学に貢献し、日英の友好関係も大事にした
倉場富三郎の功績がおわかりになったでしょうか。
富三郎が興した事業は、長崎や日本の水産学に大きく貢献しました。
事業の他に地域社会のために娯楽や親睦団体を結成するなど、日英の友好関係も大事に考えていたのです。
しかし、第二次世界大戦が富三郎の希望を砕く結果となってしまいました。
富三郎の功績は今でも目にすることが可能ですので、一度ご覧になることをおすすめします。
次回は父・グラバーと倉場富三郎をより深く知るためのツアーをご紹介します。
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