池袋をもっとディープに知ろう!
【PART.2】池袋のウラ歴史!闇市とスガモプリズン
「池袋をもっとディープに知ろう!」シリーズでは、池袋の歴史をディープに掘り下げるをテーマに、副都心への発展、闇市とスガモプリズン、女性オタク文化、チャイナタウン、文学・芸術の5つのパートにわけてご紹介します。記事を通して、池袋という都市の奥深い魅力をご紹介します。
この記事では、池袋にあった闇市とスガモプリズンについて解説します。 戦後の池袋で闇市が隆盛し、区画整理によって東口・西口の闇市が撤去されていく様子を説明します。また、スガモプリズンが、名称を変えつつも、長い歴史を持って池袋の地にあり、再開発されていく様子がわかります。
1.池袋のウラ歴史、闇市とスガモプリズン
池袋周辺
前回は自然豊かな農村である池袋が、どのように副都心へ発展したかを紐解きました。
池袋の鉄道駅と百貨店による発展は、いわば「オモテ」向きの歴史です。
今回は「ウラ」歴史ともいえる池袋の発展史をご紹介します。
池袋では戦後、闇市と呼ばれるマーケットが存在していました。
闇市によって戦後の人々の生活が助けられたと言っても過言ではありません。
また、池袋はスガモプリズンと呼ばれる拘置所があったことでも有名です。
スガモプリズンの跡地は、現在サンシャインシティと東池袋公園となり、池袋の副都心としての中心になっています。
闇市とスガモプリズンはどのように池袋にできたのでしょうか。
そして、どのように今の池袋の姿へと変わったのでしょうか。
2.闇市
2−1.闇市とは何か
闇市とは、統制が取られていない独自の取引を行う市場のことです。
戦後はこの闇市が新宿・秋葉原・新橋など人が集まりやすい鉄道駅の周辺に多く出来ました。
戦後、都内は至る所で建物が崩壊し、駅前には何もない状態になっていました。
まっさらになった、誰の所有なのかわからない土地の上に闇市は形成されていきます。
戦後の闇市で販売されていたのは主に米などの食料品です。
法外な値段で取引されることが多かったのですが、流通が少なかった時代、闇市の商品は多くの人々が重宝し、購入しました。
巨大ターミナル駅がある池袋も当然、闇市があり、東西に広がっていました。
かなり大きかったとされる池袋の闇市はいずれも撤去されますが、池袋にもたらされた隆盛は計り知れないものがあります。
では、池袋の闇市がどのような経緯を辿ったのか見ていきましょう。
2−2.池袋の闇市の隆盛
池袋東口では、闇市の形成に森田信一という人物が深く関わっています。
森田信一は元々祭りで出店される露店を営んでいた人物で、池袋の駅前にマーケットを作るため、募集をかけました。
400人の応募があり、露店の組合で業者を選定し、1946年には木造の建物が建設されました。
600から700坪もあり、池袋駅東口の目の前で営業していました。
武蔵野鉄道が運営していた武蔵野デパートの200坪の土地では、1945年12月からテントで小売業が行われていました。
武蔵野デパートは1946年に再建されましたが、木造の二棟で、縁故者を集めて雑多な小売をしていたため、闇市とほぼ変わらない運営です。
東口ではそのほか、映画館を中心に小さな露店が集合するようになります。
池袋の西口では、豊島師範学校(現在の池袋西口公園・東京芸術劇場)の大きな土地を中心に闇市が並んでいました。
元々は戦争被災者用の養護施設が建てられることを条件に、豊島師範学校の土地が借地されることになりましたが、条件は履行されず、巨大なマーケットが誕生しました。
この闇市は復興マーケットと呼ばれ、飲食店や食料品、日用品の小売店が揃っていたと言います。
しっかりした材木で建てられた店舗ばかりで、他の闇市と比較すると広めだったそうです。
また、西口にも森田が募集した闇市があり、こちらはかなりの割合で飲み屋が営まれました。
2−3.池袋の闇市で売られていたもの
池袋の闇市に出店されていた店は主に飲食店、食料店と日用品店でした。
飲食できるものは、農村から持ち込まれた米の他に、アメリカ軍から横流しされたチョコレートなどの菓子、密造酒などがあります。
密造酒は消毒用のアルコールに色をつけただけのものや、酒粕を蒸留し製造した酒がかなり流通していたらしく、時として命の危険に及んだ者もいたそうです。
日用品は手作りの鍋や釜、衣服、雑貨、本など。
闇市ではしばしばカストリという言葉が出てきます。
酒粕を蒸留した「粕取り」が語源ですが、転じて雑誌を繋ぎ合わせた粗悪な雑誌をカストリ雑誌と読んだり、カストリ文化と総称したりします。
2−4.池袋の闇市が衰退し百貨店の並ぶ駅前へ
池袋東口では比較的早く闇市が整理されています。
各地で闇市を営む「組」組織が解散され、闇市の店舗は立ち退きを余儀なくされました。
森田組も例外ではなく、解散となります。
東京都は当時池袋東口にあった根津山という林に森田の闇市の店主たちを呼び寄せ、地主にしました。
この根津山の流れが、池袋東口の復興を大いに推進することになり、東口にはコンクリート造の西武百貨店や、東京丸物が出来るほか、池袋東口民衆駅が誕生し、闇市はどんどん縮小しました。
池袋東口とは反対に、池袋西口の闇市の撤去は難航しました。
道路建設に伴い、マーケットは一部整理されましたが、各方面から反対があったそうです。
1951年の池袋西口民衆駅の建設に伴い、さらに一部のマーケットが整理されますが、闇市は依然として残っていました。
この背景には暴力団の存在が後ろ盾になっていた事実があったため、暴力団取り締まりの強化によって少しずつ闇市が縮小へと向かいます。
1961年には復興マーケットが撤去され、1962年、西口に最後まで残った森田組のマーケットが撤去されました。
その後、1959年には東横百貨店が開店、1961年には東武百貨店が開店し、池袋西口は復興を遂げました。
闇市は撤去されてしまいましたが、池袋に人を呼び寄せ、駅前に百貨店が並ぶ姿にしたきっかけの一つなのです。
2−5.池袋で見られる闇市の名残の場所
池袋では、現在も闇市の名残を見ることができます。
池袋東口では、美久仁小路という場所が有名です。
サンシャインシティを背景に飲食店が並んでおり、入り口には闇市の歴史を表す写真が展示されています。
美久仁小路のすぐ近くにある東池袋栄町通りも闇市の名残の商店街です。
木造の飲み屋が並んでおり、昭和の雰囲気を満喫することができます。
池袋西口では、西口一番街通り、ロマンス通り、エビス通りが闇市の名残と言われています。
美久仁通りや栄町通りのように昭和の闇市の姿というよりは、現代の姿も入り混じった猥雑な雰囲気を味わうことができます。
3.スガモプリズン
次に、闇市に並び、スガモプリズンをご紹介します。
スガモプリズンとは池袋にあった刑務所のこと。
スガモプリズンは、初めからそういった名称ではなく、時代を経て様々な名称へと変化しています。
スガモプリズンの土地は、現在、副都心の象徴となるサンシャインシティへと生まれ変わっています。
スガモプリズンがどのような歴史を辿り、サンシャインシティへ変わったのか、みていきましょう。
3−1.巣鴨監獄からスガモプリズンまでの歴史
1895年、石川島(現在の東京都中央区佃)監獄が巣鴨へと移転し、巣鴨監獄と呼ばれるようになります。
1922年に改称されたのが巣鴨刑務所です。
その後、巣鴨刑務所は府中へと移転したため、その跡地の三分の一で作られたのが東京拘置所です。
第二次世界大戦後、東京拘置所はGHQの管轄下におかれ、スガモプリズンに改称されました。
スガモプリズンには戦争犯罪者が収容され、処刑されました。
1952年、フランシスコ講和条約の発効により、名称は巣鴨刑務所へと変わりますが、スガモプリズンという通称は残りました。
1958年、最後の戦犯である18人が釈放され、刑務所は閉鎖し、東京拘置所が復元されます。
東京拘置所は1971年に小菅へと移転し、池袋に東京拘置所の跡地が残りました。
3−2.サンシャインシティと東池袋中央公園の開発
サンシャインシティ
通称スガモプリズンの跡地は再開発され、サンシャインシティが建設されます。
東京オリンピックをきっかけに進んでいる副都心計画の一つとしてサンシャインシティの計画が俎上に乗ります。
1966年、開発母体となる新都市開発センター(現在のサンシャインシティ)が設立。
1973年に地上60階、地下4階の高層ビルであるサンシャインシティが着工。
オイルショックを乗り越え、1978年に完成しました。
240mあるサンシャインシティは、当時アジアで最も高いビルでした。
スガモプリズンの処刑場に位置した場所には、1979年に東池袋中央公園としてサンシャインシティとともにオープンされます。
東池袋中央公園は処刑場を保存するか、また慰霊碑などを建設するか、といった話し合いがなされましたがまとまらず、公園としてオープンされたといいます。
3-3.副都心の象徴 サンシャインシティと東池袋公園
サンシャインシティは池袋駅から離れていることもあり、オープンから4年かけて店舗の入居率を100%にしました。
現在はプリンスホテルのほか、水族館やナンジャタウンといった屋内型テーマパークを中心に、噴水前にタレント公演を招致するなど、複合型都市施設となっています。
サンシャインシティに日々訪れる人々の足跡を辿るように、池袋の東口が栄えていきました。
東池袋中央公園もまた、サンシャインシティの傍で人々の憩いの場となっています。
園内には1980年、平和記念碑が建てられました。
現在は自然がたくさんある公園となり、コスプレイベントが催されたり、能の公演が行われたりなど、のどかながらも華やかな雰囲気があります。
4.池袋のウラ発展史の中心を巡ってみても面白い
池袋の闇市は東口と西口で同じように流行ったものの、撤去される過程に違いがありました。
西口は今はかなり再開発されており、あまり面影はありませんが、東口は根津山への誘致があったため、今でも名残があります。
スガモプリズンは長い間池袋の地にありましたが、スガモプリズンという名称も一過性のもので、様々に変化し、今では副都心の象徴であるサンシャインシティが建っていることがわかります。
池袋のウラ発展史の中心である闇市やスガモプリズンの跡地を巡ってみるのも面白いでしょう。
次回は池袋の女性オタクの都市という側面について掘り下げていきます。
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