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池袋をもっとディープに知ろう!

【PART.1】池袋 副都心への発展史



池袋をもっとディープに知ろう!」シリーズでは、池袋の歴史をディープに掘り下げるをテーマに、副都心への発展、闇市とスガモプリズン、女性オタク文化、チャイナタウン、文学・芸術の5つのパートにわけてご紹介します。記事を通して、池袋という都市の奥深い魅力をご紹介します。

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この記事では、池袋がどのようにして副都心へと発展したのか解説します。 池袋が昔自然豊かな場所だったこと、鉄道が乗り入れ、関東大震災による復興から人が集まり、百貨店ができたことで副都心へと発展した様子がわかります。

1. 池袋がどのように副都心へと発展したのか紐解いていこう

池袋駅


皆さんは池袋の町へ足を運んだことがありますか?

関東に住んでいる方は必ず一度は行ったことがあると思います。地方にお住まいの方も観光で訪れたり、テレビで見かける機会がたくさんあるでしょう。

池袋は新宿・渋谷と合わせて東京の三大副都心と呼ばれています。副都心とは中央区などの都心の周辺で発展し中心となる地域のことです。

そんな池袋が、元々は自然豊かな場所だったことをご存知でしょうか?

池袋の街はどのようにして副都心へと発展したのでしょうか。

今回の記事では池袋に鉄道駅が出来て発展していく経緯を紐解いていきます。

2. 池袋の副都心への発展史

2−1.水源の豊かな土地だった池袋

江戸時代の池袋は武蔵野と呼ばれる地域に分類され、自然豊かなイメージがありました。

池袋の地名は丸池と呼ばれた池にあります。

この丸池は農業用水の役割を果たした弦巻川の水源であったことから、池袋と名付けられました。

現在では元池袋史跡公園に「池袋地名ゆかりの池」の碑が建っています。

丸池以外にも、池袋は水にゆかりのある地だったことがわかる資料があります。

歌川広重が描いた《江戸自慢三十六興落合ほたる》は、落合周辺が蛍の名所として有名だったことを表しています。

落合は神田川と妙正寺川が合流することから名付けられた場所。

池袋は清流が通る地域だったのですね。

また、雑司ヶ谷には御留山と呼ばれる山があり、徳川吉宗はここで鷹狩をしていたと伝えられています。

この山は1948年に「おとめ山公園」となり、2014年には「区民ふれあいの森」へと拡張工事されました。

現在は「ホタル舎」が設けられ、蛍を観察できるようになっております。

池袋は蛍とも縁がありますね。

以上のように、池袋はもともと水源が豊かで、蛍と縁がある地域でした。

2−2.「池袋駅」が誕生し巨大ターミナル駅へ

西武鉄道9000系


自然豊かな池袋が大都市へと発展した理由の一つは、鉄道駅「池袋」が出来たこと。

1885年に品川〜赤羽間を結ぶ品川線が開通しましたが、池袋には自然ばかりで人があまりいなかったことから、駅は出来ませんでした。

上野や常磐から横浜へ海外輸送を行う場合、赤羽まで北上しなければならないのが不便な点です。

1902年、田端〜池袋を結ぶ豊島線が開通し、池袋の地点で信号機により品川線との切り替えを行いました。

1903年、池袋駅が設けられました。

元々は目白周辺に駅を作るつもりでしたが、住民の反対により、何もない土地だった池袋に作られることになりました。

品川線の一部は埼京線へ、そのほかの品川線と豊島線は山手線になります。

1911年、池袋駅に東上鉄道(現在の東武東上線)が開通します。

東上鉄道は開通当初は池袋から田面沢を結び、その後拡張して川越から坂戸を開通しました。

1915年には武蔵野鉄道(現在の西武鉄道)が開通。池袋から埼玉の飯能までを繋ぎました。

池袋駅は1915年の時点で、4つの線を結ぶ巨大ターミナル駅へと発展しています。

しかし、池袋はまだ巣鴨などと比較すると郊外にある乗り換え駅という印象でした。

2−3.関東大震災からの復興

池袋が発展したもう一つの理由は、関東大震災からの復興です。

1923年、関東大震災と呼ばれる大きな地震被害がありました。

池袋駅周辺に住んでいた住民はいったん池袋から離れてしまいます。

政府は震災復興の都市計画として、各地の区画整理を行いました。

関東大震災の一環として、都内をまたがる大規模な環状線の道路「明治通り」が開通しました。

明治通りに路線バスが通るようになると、道路沿いが賑わうようになります。

1932年には4つの町が合併し、豊島区が誕生します。

1935年には池袋駅近くに区役所が建設されました。

この豊島区の誕生をきっかけに人々が集まり、池袋駅もだんだん栄えるようになり、商店街ができて賑わいを見せるようになります。

2−4.池袋、副都心への発展

池袋東口付近


池袋は第二次世界大戦を経て、百貨店が並び大勢の人々が訪れる副都心へと発展していきます。

池袋駅に訪れると、「なぜ東口に西武百貨店、西口に東武百貨店があるのだろう?」という疑問が生じるかと思います。

1935年、池袋東口駅前に菊谷デパート池袋分店が出来ました。

1940年、菊谷デパート池袋分店を武蔵野鉄道が買い取り、武蔵野デパートとして営業を開始。

1949年に西武百貨店へと改名され、リニューアルして営業を開始しました。

武蔵野鉄道は1946年に多摩を走る西武鉄道と合併し、全線を西武鉄道へと改名しています。

一方、東武百貨店の方も、1950年に西口に出来た東横百貨店が前身となります。

1962年、東武百貨店が西口で営業開始。

1964年に東横百貨店は東武百貨店に譲渡され、全店が東武百貨店として営業されるようになります。

どちらの百貨店も、先にできた店の買取が行われたため、意図して分かれた訳ではないのですね。

西武百貨店、東武百貨店のほかにも、1954年には池袋PARCOの前身となる東京丸物が東口に誕生。

1969年に商号をパルコと改め、池袋PARCOが開店しました。

1978年、池袋の副都心開発として、池袋を代表する建物・サンシャインシティが建設されます。

このサンシャインシティは251mもの高さで、当時アジアで最も高いビルとなりました。

池袋に乗り入れる鉄道も進化を続けました。

1954年には地下鉄の丸の内線が開通し、御茶ノ水までを繋ぐ線路ができました。

1974年には有楽町線、2008年には副都心線が開通。

このようにして、池袋は7つの線路が行き交う巨大なターミナル駅ができ、百貨店が競合し多くの人が訪れる副都心となったのです。

3.池袋は鉄道と開発にもってこいの土地だった

池袋が発展する様子を定点観察してご紹介しました。

池袋の自然豊かで水に溢れた土地が、鉄道駅と関東大震災をきっかけに開発され、今や巨大な副都心となっています。

それだけ池袋の位置が便利な場所だったと考えられます。

また、自然に囲まれて人が少なかったからこそ、百貨店など大きな施設の開発もしやすかったのでしょう。

元々人が住んでいた目白からは乗り換え駅の建設に反対があったことからも、想定しやすいです。

こうした鉄道と商業による池袋の歴史は、表立って説明可能なものです。

次回は池袋の「裏」歴史とも言えるディープな物語をご紹介します。

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