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全クリエイター向け!トキワ荘を巡る旅 ~メンバーの言葉から創作のヒントを得よう

日本


こんにちは!Pokke編集部です。
この記事では、創作に携わる全クリエイターに向けた旅を紹介します。マンガの聖地であるトキワ荘に入居していたメンバーゆかりの聖地巡礼を通し、メンバーの名言を学びます。



目次

トキワ荘とは?


トキワ荘をご存知でしょうか。
戦後、ストーリー漫画が雑誌に掲載され始めた頃、若きマンガ家志望者が集まったアパートがトキワ荘です。現在トキワ荘は創作に携わるすべてのクリエイターにとって伝説となり、ファンが訪れる聖地となっています。

トキワ荘の各部屋のメンバーとゆかりの地

トキワ荘のマンガ家にはどのようなメンバーがいたのでしょうか。
そしてどんなことがあったのか、彼らがどのように仕事をしていたのか、住んでいた各部屋ごとに紹介します。



この記事では部屋ごとにメンバーの名言を紹介します。
伝説とも呼べるメンバーたちの考え方を知ることで、クリエイターにとって今後の創作のヒントになるかもしれません。
また、その人物ゆかりの地もご紹介します。実際に訪れ、トキワ荘の巨匠たちに心を馳せてみませんか。

トキワ荘14号室 手塚治虫

手塚治虫はこんにち「マンガの神様」と言われています。代表作は『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『ブラック・ジャック』があります。
手塚はトキワ荘に入居した時点ですでに人気作家でした。まだ奈良医科大学で医師の勉強をしている途中だったので、大阪の実家と東京の地点を行き来していました。そのためほとんどトキワ荘にはいなかったそうです。
しかしそのような忙しい合間を縫って、デビュー前の藤子不二雄や石ノ森章太郎らと文通で連絡を取ったり、他のマンガ家の作品を読んだり、演劇や映画、音楽を鑑賞していたそうです。

手塚は後輩マンガ家たちにこう言葉を残しています。


「君たち、漫画から漫画の勉強するのはやめなさい。一流の映画をみろ、一流の音楽を聞け、一流の芝居を見ろ、一流の本を読め。そして、それから自分の世界を作れ」
出所:IQ. 手塚治虫『一流の映画をみろ、一流の音楽を聞け、一流の芝居を見ろ、一流の本を読め。そして、それから自分の世界を作れ。』


手塚が多忙ながらも作品を産み続けられた理由がよくわかる発言です。
手塚はディズニーのアニメーションに憧れがあり、マンガだけではなくアニメーションも手掛けたいと考え、1961年に虫プロダクションを設立しました。そこで『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』といった自身の作品をテレビアニメの黎明期にアニメ化制作・放映し、大流行しました。
しかし、虫プロは単価の引き下げなどにより経営難に陥り、1973年に倒産してしまいます。
さらに、1970年代には劇画が流行し始め、児童向けのマンガを中心に執筆していた手塚は世間にとって過去の人になりつつありました。秋田書店の壁村耐三は手塚に対する餞として週刊少年チャンピオンで連載を持たせることにしました。
手塚はそこで劇画を取り入れた医療マンガ『ブラック・ジャック』を1973年から連載し、起死回生を図ります。『ブラック・ジャック』は見事大人気となり、人気作家へ復活を遂げます。
手塚はことあるごとに天才、と称されることについてこう語っています。



 「天才?とんでもない。私ほど苦しんでる人間はいないんじゃない。悩んで損と分かってるのに、つい(笑)」
引用元:手塚治虫『手塚治虫99のことば』, 双葉社, 2019年, p.102


失敗や挫折をしても必ず立て直す手塚。その貪欲な姿勢が見受けられます。

ゆかりの地
ジャングル大帝モニュメント…西武池袋線東長崎駅
總禅寺の墓…巣鴨にあります。手塚家先祖の墓と一緒に眠っています。

トキワ荘14号室・15号室 藤子不二雄

藤子不二雄は我孫子素雄(以下、藤子不二雄A)と、藤本弘(以下、藤子・F・不二雄)のコンビ名です。コンビでの代表作は『オバケのQ太郎』『海の王子』です。
二人は小学校からの同級生で、手塚治虫に憧れてコンビを組んでマンガを描くようになり、学童社の発行するマンガ雑誌『漫画少年』で学生時代にデビューします。本格的にマンガを描くため、故郷の富山から上京し、両国の2畳のアパートに引っ越しますが、手塚に誘われてその退去後のトキワ荘に敷金を受け継いで引っ越します。トキワ荘では一時同居し、隣の15号室が開いたら藤子・F・不二雄がそこに移動しました。
トキワ荘では新漫画党というグループに入り、トキワ荘に入居したマンガ家たちと交友を深めます。
トキワ荘でもコンビとしてマンガを制作しますが、二人は作風が違うので、別でマンガを描くようになります。その間も印税は折半しています。
トキワ荘の一人でアニメーターの鈴木伸一がおとぎプロを退社したのをきっかけに「トキワ荘をもう一度」と当時のメンバーを集めてスタジオ・ゼロという会社を設立します。最初はアニメーションを制作していましたが、あまり仕事がなかったため、雑誌部を作り、そこで再びコンビで『オバケのQ太郎』を合作し、人気となりました。
晩年はコンビ解消し、印税折半も解消します。しかし、二人は一貫して仲が良かったそうです。藤子・F・不二雄の言葉に興味深い発言があります。



 「漫画は自分で考えるものだから、漫画家同士で漫画のこと話しちゃダメだ」
出所:文春オンライン, 【追悼】「テラさんがいなかったら藤子不二雄は存在していません」 手塚治虫、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、寺田ヒロオ…“青春の殿堂”だったトキワ荘での日々


驚くべきことに、長い時間を共にしていても、トキワ荘のマンガ家同士ではマンガについてほとんど語り合わなかったようです。これが藤子不二雄のコンビにも良い影響があったようです。

続いて、藤子不二雄A、藤子・F・不二雄をもう少し掘り下げていきます。

藤子不二雄A

藤子不二雄Aは、自ら少年漫画から青年漫画へ転向したことを証言しています。



「僕は20過ぎていろんな遊びを覚えたもので、そのまま子供漫画を描き続けるのが難しくなってきた。それで「笑ゥせぇるすまん」のような青年漫画に転向したのですが、それがうまく時代の流れに同調していたのか、おかげで今の自分があるのだと思います」
出所:ARTNE, 御年85歳にして衰えぬ創作意欲。藤子不二雄Ⓐ氏に「藤子不二雄Ⓐ展」の見どころと、そのパワーの源を聞いた【インタビュー】


藤子不二雄Aはベタが好きで主線も太く、黒い藤子と称されます。内容もいじめられっ子の復讐劇『魔太郎が来る!!』、有名なブラックユーモア作品『笑ゥせぇるすまん』などに変化しています。こうした変化が時代に合っていたのだと分析しています。
また、藤子不二雄Aは映画のプロデュース業も行いました。柏原兵三の小説『長い道』に感動した藤子不二雄Aは、自身でマンガ化するだけではなく、『少年時代』という映画をプロデュースします。監督に篠田正浩、脚本に山田太一、主題歌を井上陽水へと指名し制作しました。
その結果、映画作品は日本アカデミー賞を受賞し、高く評価されました。



 「ジャズの即興演奏みたいに、一気にイメージがわいてくる。そうやって自分に素直に生きてきたから、50年も好きな漫画を描いてこられたんだろうなあ」
出所:偉人たちの名言集, 藤子 不二雄(A)の名言

藤子・F・不二雄

藤子・F・不二雄は『ドラえもん』が大ブレイクし、国民的アニメとなっています。彼は基本的に児童マンガを描くスタンスをとり、コロコロコミックの創刊などにも携わりました。藤子不二雄Aは次のように評します。



「藤本くん(藤子・F・不二雄)は本当に才能のある人で、まじめで、僕と違って全然遊びをやらない人物でした。だからこそ、いくつになっても「ドラえもん」のような純粋な漫画を描けたのだと思います」
出所:ARTNE, 御年85歳にして衰えぬ創作意欲。藤子不二雄Ⓐ氏に「藤子不二雄Ⓐ展」の見どころと、そのパワーの源を聞いた【インタビュー】


真面目な人柄がそのまま児童向けのマンガに合っていたということでしょう。藤子・F・不二雄の作品は優しい線が特徴で、背景もトーンや手描きのテクスチャを多用するので白い藤子と呼ばれていました。
一方で、藤子・F・不二雄はSF(すこし・ふしぎ)シリーズなど、大人向けの青年マンガでも作品を残し、人気になっています。



「人間の頭脳というのは、学習能力を持ったコンピューターのようなもので、かけばかくほど、それがひとつの方程式になって、頭の中にインプットされていきます。そのうちに、そこへ材料をほうりこめば、アイディアが簡単に出てくるようになります。」
出所:コトバのチカラ.JP, コトバのチカラ.JP


本人がこう語るように、何作も生み出した彼にとっては、挑戦したジャンルでも上手くいくコツがあったと考えられます。

藤子不二雄のゆかりの地
怪物くんモニュメント…西武池袋線椎名町駅


@himi_takaoka さまよりご提供
※こちらは富山県氷見駅付近のお写真です


菊香堂跡…二人がトキワ荘で締切前に片手でつまめるフランスパンを買っていたパン屋の跡地。
もっと知りたい場合は…藤子・F・不二雄ミュージアム(川崎市)

@giwon_jp さまよりご提供

トキワ荘16号室 赤塚不二夫

赤塚不二夫は『おそ松くん』『天才バカボン』といったギャグマンガで有名なマンガ家です。
赤塚はトキワ荘に入居した当初からギャグマンガを描きたかったのですが、求められる需要は創刊されたばかりで人手が足りない少女マンガでした。あまり思うように描けず、売れない日々が続きます。一時期マンガ家をやめようとしましたが、トキワ荘のマンガ家の先輩である寺田ヒロオに励まされて思い留まります。そして長く石ノ森章太郎のアシスタントをしながらマンガを描き続けました。



「努力もしたよ。売れるまでは必死に勉強した。いまの漫画の世界はどうなっているのかなって人の漫画を読んだり、手塚治虫先生のストーリー漫画を読んで、あのスケールの大きさを感じて、「あれは先生のものだから、自分は違う道を行こう」と考えたりした」
出所:心を輝かせる名言集, 赤塚不二夫 珠玉の名言・格言21選


1958年、ちばてつやの代替を探していた秋田書店の編集者に対して、石ノ森が赤塚を紹介します。赤塚はこの時「ナラちゃん」という読み切りマンガを描き、『まんが王』に掲載されます。そこで人気に火がつきます。その後「おそ松くん」「天才バカボン」でブレイクします。
ギャグマンガのキャラクターについて、赤塚はこう語ります。



「ただバカっつったって、ホントのバカじゃダメなんだからな。知性とパイオニア精神にあふれたバカになんなきゃいけないの」
出所:名言大学, 赤塚不二夫


赤塚の不条理なギャグマンガの世界は、実は考え抜かれたものであることがわかります。
赤塚はその後、アニメの分野にも進出します。先述のスタジオ・ゼロに遅れて参加し、アニメーションを手掛けました。自身でもフジオ・プロを設立し、マンガとアニメーションを自社で行いました。
その後はステージパフォーマンスに参加し、マンガが描けずスランプに陥ります。テレビアニメの再放送で人気が再燃したのをきっかけにリメイク版の『天才バカボン』や『おそ松くん』で復帰します。この頃から飲酒量が増え、病気療養でのインタビュー中の飲酒など、破天荒な生活が取り上げられるようになります。
「これでいいのだ」
バカボンのパパの有名な台詞は、そのまま赤塚の人生を肯定する名言としても残っています。

ゆかりの地
紫雲荘…トキワ荘と兼用オフィスで借りていたアパート。現在は豊島区のマンガ家支援のアパートになっています。
鈴木園跡…結婚後に転居したアパート跡。ここで『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』を描きました。

トキワ荘17号室 石ノ森章太郎

石ノ森章太郎の代表作は『サイボーグ009』『仮面ライダー』です。
石ノ森は学生時代から非常に行動力がありました。中学生の時には近所の友達を集めて『墨汁一滴』という創作マンガの同人誌を発刊しました。高校生時代には『漫画少年』という雑誌に投稿するかたわら、文通で東日本漫画研究会を作成します。こうした石ノ森の行動力はこの言葉に現れていると言えます。

「諸君、体の動くうちが華だぞ。頭の中で考え込んでいる間に、時間はどんどん過ぎてしまうのだから」
出所:Meigen-Devote, 石ノ森章太郎


石ノ森の噂は手塚治虫の耳にも入り、手塚はアシスタントを石ノ森に頼む電報を送ります。石ノ森は承諾しアシスタントを勤めました。手塚は石ノ森を編集者に紹介し、これがきっかけとなって石ノ森は『二級天使』という作品でデビューします。
石ノ森は高校卒業と同時に上京します。初期は一人暮らしをしていましたが、自炊ができず赤塚などトキワ荘のマンガ家に誘われて入居します。
トキワ荘に入居した中では最年少だった石ノ森ですが、頭角を現すのは早く、すぐにいくつも連載を持っていました。仕事がない赤塚に対してアシスタントをしてもらいながら、映画を奢って励まします。



「売れなくなったときのことは、売れなくなってから考えればいい。そんな先のことにエネルギーを費やすなら、今やれることはいくらだってあるじゃないか」
出所:偉人たちの名言集, 石ノ森 章太郎の名言


生活や仕事であまり苦労をしていない石ノ森ですが、自身のモチベーションは一貫して持っていました。
トキワ荘での生活は石ノ森にとって大きな思い出となったようで、トキワ荘には最も長く住んでいました。
石ノ森もまた、アニメーションにかかわります。スタジオ・ゼロの参加だけではなく、1959年に手塚の身代わりとして東映動画の制作した劇場アニメーション『西遊記』に参加しました。そのまま就職したいと願いますが、絵が個性的だという理由で、マンガが売れた時にマンガ原作を買い取りたいと断られます。これが縁となり、のちに東映動画の特撮原作者として『仮面ライダー』にかかわりました。
石ノ森も例に漏れず、自身の会社を設立し、マンガとアニメーションを制作しました。

ゆかりの地
あけぼの湯跡…トキワ荘転居後に住んでいた跡地
祥雲寺の墓…要町に残る石ノ森の墓
もっと知りたくなったら 石ノ森章太郎ふるさと記念館(宮城県登米市) 石ノ森萬画館(宮城県石巻市)

トキワ荘18号室 山内ジョージ

山内は主に動物絵文字、グラフィックデザインで活躍するクリエイターです。「ひらけ!ポンキッキ」内の動物絵文字アニメなどを担当しました。
中学生の時に『漫画少年』の投稿を通じて手塚治虫と文通をします。また、同じ宮城県に住む石ノ森と東日本漫画研究会を通して知り合い『墨汁一滴』にも参加します。


@k.tsukamoto2404 さまよりご提供


高校卒業後は石ノ森を追ってトキワ荘に入居し、石ノ森や赤塚のアシスタントを行います。石ノ森とともに喫茶店でモーニングをしたり、赤塚とでかけたりと、主にこの二人と交流をしていたそうです。
石ノ森の退去をきっかけに山内もトキワ荘を離れました。マンガ家として最後のトキワ荘の住人となりました。
赤塚のフジオ・プロの前身となる七福人プロダクションに加わり、『少年ブック』や学年誌のカットを描きながら、赤塚のアシスタントを勤めました。
七福人プロの解散後は続けて赤塚のアシスタントは行わず、トキワ荘に出入りしていた高井研一郎と「太宰勉」名義で合作を始めます。
高井はその後フジオ・プロの一員として忙しくなり、山内もマンガから離れて動物絵文字、グラフィックデザイナーへと転向していきます。
現在も動物絵文字で活躍し、石ノ森章太郎ふるさと記念館で企画展を行ったり、児童書を出版したりしています。

ゆかりの地
あいうえモニュメント…南長崎はらっぱ公園
トキワ荘マンガミュージアム…18号室当時の部屋の再現

トキワ荘19号室 水野英子

水野英子の代表作は『星のたてごと』『白いトロイカ』『ファイヤー!』です。水野はトキワ荘に入居した紅一点の女性マンガ家でした。
水野は15歳でデビューします。水野もまた『漫画少年』の投稿時に手塚の目に留まったことで編集者に紹介され、『少女クラブ』でのデビューに繋がりました。
水野は石ノ森、赤塚との合作のためトキワ荘に入居します。合作のペンネームはU・マイアとし、『赤い火とくろかみ』『星はかなしく』『くらやみの天使』といった作品を発表しました。
トキワ荘の入居期間中、水野は石ノ森のアシスタントも経験しました。水野にとって、このアシスタント経験が画力向上に繋がったと語っています。
当時の少女マンガは「こわい」「かなしい」「おもしろい」が主軸となっており、内容も日本の日常的な物語が多かったのですが、水野はヨーロッパやギリシャを舞台にした規模の大きい物語を連載し、人気になりました。作品『星のたてごと』は少女漫画雑誌で初めて恋愛をテーマに連載したマンガです。
その後は黒人解放運動をテーマにした『ブロードウェイの星』など、社会をテーマにしたマンガが中心になります。『ファイヤー!』という作品ではヒッピーミュージックをテーマにしており、男性の主人公や、アメリカとヨーロッパの現地取材によるリアルな描写が男性にも人気を博しました。



「戦前、女性が押さえつけられていた生活から解放されたいという意識があり、人間の在り方について自分の理想のようなものを描いていました」
出所:NHK, 「トキワ荘」秘話 ~石ノ森や赤塚が少女漫画を描いたわけ~


水野は女性の立場と社会的弱者を重ね合わせ、その解放を願う理想のマンガを描いていたのです。
現在、水野は『トキワ荘パワー!』というエッセイを出版したり、積極的に講演会などを行ったりと、トキワ荘を風化させないための活動を行っています。

ゆかりの地
星のたてごとモニュメント…都営地下鉄大江戸線南長崎駅
トキワ荘マンガミュージアム…19号室当時の部屋の再現

トキワ荘20号室 鈴木伸一

鈴木伸一はアニメーターです。代表作は『パーマン』『ぼくらマンガ家トキワ荘物語』『チックンタック』です。鈴木伸一は藤子不二雄のマンガに登場する「ラーメン大好き小池さん」のモデルとなった人物です。
鈴木もまた『漫画少年』のマンガ投稿者でした。上京し、トキワ荘に入居してからもマンガ家を目指しながらデザイン会社で働きますが、デビューには至りませんでした。横山隆一のアニメーション会社「おとぎプロ」に入社が決定し、トキワ荘を退去します。



「アニメに限らないのですが、好きなことはひたすらやってみることです」
引用元:鈴木 伸一『アニメが世界をつなぐ』, 岩波書店, 2008年, p.202


鈴木にとってはデザインもマンガもアニメーションも楽しい経験だったようです。
独自の方法でアニメ制作をしていたおとぎプロから、もっと別の世界を見ようと退社後、先述したようにトキワ荘のメンバーでスタジオ・ゼロの設立をします。鈴木は手塚の影響でやりたいと思ったと語っています。
スタジオ・ゼロでは虫プロなど他社から依頼されたアニメ制作の下請け、雑誌部での漫画制作と経営や制作で試行錯誤します。スタジオ・ゼロは仕事が引き潮になったタイミングで解散をします。鈴木はそのスタジオ・ゼロを引き継いで個人事務所にします。
鈴木はおとぎプロ時代からテレビアニメを作るだけではなく、自主制作もいくつか行いました。1976年、鈴木は『ひょうたん』という短編アニメーションでカナダ国際アニメーション・フェスティバルコンクールに入選します。



「集まってきた若いスタッフには「(スタジオ・)ゼロの仕事はやらなければならないけれど、時間があるときは自分の作品を作るように」と、自主作品作りを奨励していました。ぼく自身も、自主作品作りに魅力を感じていたからです」(括弧内記事筆者)
引用元:鈴木 伸一『アニメが世界をつなぐ』, 岩波書店, 2008年, p.161


スタジオ・ゼロ時代から若いスタッフに助言していたように、自分の作品を作り出す楽しさや魅力が大事だと伝えています。
鈴木は現在もアニメーター新人育成や、「G9+1」というアニメーターチームに参加しアニメ制作を行っています。

ゆかりの地
小池さんラーメンモニュメント…豊島区南長崎公園
中華料理屋「松葉」…トキワ荘メンバーがラーメンを食べたり出前を頼んだりしていた
杉並アニメミュージアム…鈴木伸一が館長

トキワ荘20号室 森安なおや

森安なおやの代表作は『いねっ子わらっ子』『赤い自転車』『烏城物語』です。作品の多くは貸本マンガ時代に描かれたもので、現在では入手困難な作品も多くあります。
森安は高校卒業後、『のらくろ』で有名なマンガ家・田河水泡を慕い、上京して師弟関係になります。田河の家に下宿してマンガを描きますが、生活スタイルまでそっくりにする昔ながらの師弟関係や、作品制作のやり方に疑問を抱き、トキワ荘へ転居します。
定職を持たない森安は鈴木の部屋に転がりこむ形で同居します。そこで新漫画党にも入り、マンガを描きます。
森安は芸術家肌で、描きたい時だけマンガを描いていました。納得のいくような作品が描けないと締切を守らないことが多くありました。トキワ荘のメンバーから編集者を紹介してもらっても、かなりの数の原稿を落としていたようです。
その反面、描き上げられた作品は郷愁や牧歌的な雰囲気が素晴らしく、トキワ荘のマンガ家たちから高く評価されていました。
森安は生涯定職につかず、マンガ家としても筆が早くなかったため、事実上引退しながら、趣味でマンガを描くようになります。
晩年は故郷である岡山県と彼のファンからの誘致があり、岡山城を舞台にした『烏城物語』を執筆し、出版されます。『烏城物語』は第二版も発売されますがすべて即完売しており、現在は入手困難な作品となっています。

ゆかりの地
「いねっ子わらっ子」モニュメント…特別養護老人ホーム風かおる里前

トキワ荘20号室 よこたとくお

よこたの代表作は『マーガレットちゃん』などがあります。主に学習マンガで活躍していました。
よこたも『漫画少年』や『漫画研究』というマンガ雑誌に投稿する一人でした。上京し、貸本マンガでデビュー後は雑誌投稿者の集いで知り合った赤塚と西荒川で同居していた時期がありました。
鈴木伸一、森安なおやの退去後に、トキワ荘に入居します。この頃から少女マンガ雑誌にギャグマンガを描くようになります。赤塚と同時期にトキワ荘を退去し、結婚して鈴木園に転居します。ここでも隣室は赤塚でした。この鈴木園で代表作となる『マーガレットちゃん』を週刊少女マーガレットで描きました。
よこたもまた、スタジオ・ゼロに参加し、雑誌部で赤塚と共に『まかせて長太』の制作にかかわりました。フジコプロへの誘いもありましたが、独立のため断ったそうです。 
その後、石ノ森からの依頼があり、石ノ森が原案の『アスガード7』で作画を担当しました。これがきっかけで学習マンガを描くようになります。大人向けの学習マンガや地域歴史マンガなど、多くの作品を描きました。

ゆかりの地
マーガレットちゃんモニュメント…区民ひろば富士見台
鈴木園…赤塚の隣室に同居
トキワ荘マンガミュージアム 20号室の再現

トキワ荘22号室 寺田ヒロオ

寺田ヒロオの代表作は『背番号0』『スポーツマン金太郎』です。主に1950年代に活躍したマンガ家です。
寺田もまた『漫画少年』の投稿者でした。デビューすると基本的にはずっと『漫画少年』から原稿の依頼、その他小さなカットでひたすら仕事をもらっていました。その後『漫画少年』を発行していた学童社が倒産し、『週刊少年サンデー』など他誌に移動しますが、そこでも人気は確保していました。
寺田は非常に真面目な性格でした。トキワ荘の大家にとっては、寺田のおかげでマンガ家を受け入れる印象がよくなったそうです。トキワ荘に入居した後輩マンガ家の面倒見もよく、マンガのアドバイスや家賃を貸したりなどを行っていました。
トキワ荘や出入りするマンガ家を含め、新漫画党を結成したのも寺田です。寺田は人を選んで新漫画党に誘っていました。トキワ荘のマンガ家の入居者に、ある程度マンガの技術力やコミュニケーション能力を求めたのも寺田です。
寺田は「マンガは子どものためのもの」だという確固たる信念をもっていました。そのため、手塚治虫的なストーリーマンガが主流になってしまい、さらに大人向けの劇画が流行り出すと、筆を折ってしまいます。
晩年は自らがデビューしたマンガ雑誌の史書である『『漫画少年』史』を出版しました。この本はこの雑誌に掲載された作品目録や、手塚、藤子、赤塚らの作品を再掲するなど、国立国会図書館でも現存していない『漫画少年』の貴重な資料となりました。

ゆかりの地
背番号0モニュメント…南長崎スポーツセンター前
トキワ荘おやすみ処…二階部分でトキワ荘時代の寺田の部屋が再現されている

おわりに

トキワ荘と、そこに暮らしていたマンガ家たちのことが少しご理解いただけたでしょうか。

トキワ荘という場

トキワ荘は主に『漫画少年』の雑誌に投稿している中から、選ばれた優秀なマンガ家が集まりました。優秀なマンガ家が集ったことでお互いにアシスタントで協力したり、経験を培ったりすることができたようです。編集者への紹介も可能になり、仕事を貰う場にもなりました。

挑戦

トキワ荘を経たほとんどのマンガ家、その他アニメーターやクリエイターがアニメーションや映画など、本業とは違う仕事も経験しています。そのためにプロダクションを立ち上げた人もほとんどでした。また、この全員が手塚治虫のことを尊敬し、その軌跡を辿ろうとしています。

価値観の更新

マンガが子どものために描かれた時代にデビューしたにもかかわらず、手塚治虫や藤子不二雄Aは青年漫画にも移行し、人気を博すなど、価値観を更新し続けました。水野英子は既成の概念に囚われず、新しいジャンルを作りました。

これらの軌跡が残るトキワ荘のマンガ家のゆかりの地に足を運んでみてはいかがでしょうか。

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