行基ってどんな人?行基に関する豆知識や気になる疑問を紹介!
公開日:2021.10.26 更新日:2022.11.25
近鉄奈良駅前に、行基像を中心とした噴水があり、行基広場と呼ばれているのをご存知でしょうか。その場所は、地元民だけでなく、観光客の絶好の待ち合わせ場所でありランドマークです。
今回の記事では、奈良にはたくさんの偉人、有名人がいるのになぜ行基なのか。そもそも行基とはどういう人物なのか。行基について詳しく紹介しましょう。
株式会社MEBUKU
Pokke編集部
1.行基に関する豆知識、気になる疑問を徹底紹介
1-1 行基を知る前にチェック!奈良にとっての大仏とは?
752年に、奈良の大仏は完成しました。その後、2度の戦火で焼け落ちるなどしますが、その度に復興されてきました。
奈良にとって大仏とは、心の拠り所であるだけでなく、観光資源(昔から)であり続けています。大仏商法って言葉があるぐらいです。
1-2 大仏ができたのは、聖武天皇と行基のおかげ?
聖武天皇が大仏を作ろうと詔(みことのり)を743年に出されました。
その呼びかけに応えた行基と行基を慕う民の力によって、丸9年の歳月、のべ260万人を動員して奈良の大仏は、752年に完成しました。
1-3 行基は、どこ出身?
行基は、天智天皇が大津宮で即位した668年、河内国(現在の大阪府堺市)で、父、高志才智(こしのさいち)と、母、蜂田古爾比売(はちだのこにひめ)の長子として生まれました。
1-4 行基は、15歳で出家
行基は、15歳の時に、大官大寺で出家しました。当時の律令制のもとでは、一般人は容易に僧尼になることができないのが原則でした。たとえ、出家したとしても、自由な行動は認められていませんでした。
1-5 行基と名乗ったのは24歳
その後、24歳で受戒し、飛鳥寺、薬師寺で法相宗の教学を学び、名を行基と改めました。ここに、その後活躍し、歴史に名を残す「行基」という名前が登場したのです。
行基と名を改めた当時の彼は、その後の自分自身の行く末を知っていたのでしょうか。想像していたでしょうか。
1-6 行基の先生は、遣唐使の一員、道昭(どうしょう)
行基は飛鳥寺で、道昭から教えを受けたとされていますが、道昭は遣唐使の一員として唐に渡っています。
道昭が伝道や社会事業のために各地を巡ったその間、弟子の行基はともに巡ったと思われます。
井戸を掘り、渡しや港に船を備え、橋を架けるというその後の行基の事業に大きな影響を与えています。
1-7 道昭の師匠は、「西遊記」の三蔵法師
遣唐使の一員として唐に渡った道昭の師匠は、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)と言われています。玄奘三蔵といえば、あの「西遊記」の三蔵法師のことです。
こんなところに、あの三蔵法師が出てくるなんてビックリです。
1-8 民衆に慕われる行基
道昭が亡くなった年に、大宝律令が実施され、支配体制が確立し、農民たちから奪い苦しめます。その締め付けを嫌った農民たちが各地に溢れました。
そんな時代に、行基は積極的に民間伝道を始めました。行基の説法を聞いた民衆は、自ら喜んで、行基の社会事業に労力を提供しました。
そのころ、行基は「行基菩薩」と民衆に呼ばれていました。苦しむ民衆にとって、行基はまさに救済者だったのです。
1-9 行基は土木技術者?
行基は、抑圧され、貧しさにあえぐ民衆のために、井戸を掘り、渡しや港を整備し、橋を架けました。
歴史書「続日本紀」には、「自ら弟子を率いて、様々な要害のところに橋を造り、堤を築いた」とあり、行基自身が土木技術を持っていたことを示すような書きぶりです。
きっと、道昭から学んだんでしょう。
行基が新しく開いたり修復したりしたものは、歴史書によって若干の差がありますが、主なものに貯水池3、橋3、播磨から摂津にかけての5つの港などがわかっています。
1-10 温泉にまつわる行基のエピソード
前項で書いた社会事業のほかに、行基はたくさんの温泉も開いたと言われています。こんなエピソードが伝わっています。
行基が温泉に入っていると、そこにいた病人に「体の膿を吸い出してほしい」と頼まれました。言われたとおりにしたら、蛆までわいていた病人の体が崩れ、金色に輝く仏様が現れました。
驚く行基に仏様は、「あなたの慈悲深さに感動しました。私はこの温泉の行者です。この温泉を民衆に開放し、病気の民を救ってあげてください」と言われました。
その後、その温泉は民に開放され、多くの民を救ったと言われています。
1-11 行基の活動に不安を感じた朝廷
717年、詔によって「小僧の行基と弟子たちが道路に乱れ出てみだりに説教している。偽りのことを教えて人民を惑わせている」と、行基が率いる宗教集団とそれに従う民衆を弾圧しました。
「小僧(しょうそう)」と文字通り、見下しています。
行基が説法を始めると、数千人から一万人も集まったと言いますから、朝廷の側からすれば、反政府的な動きではないかと不安になるのも仕方ないかもしれません。
1-12 行基たちの行動を無視できなくなった朝廷
朝廷は行基たちへの弾圧一辺倒から、大目に見るように変わってきました。
それは、行基が弾圧に屈せず、民衆のために伝道や社会事業を続けたことが大きいと考えられます。
1-13 行基が活動した奈良時代って?
行基が活躍した奈良時代の初めは、長屋王の変が起こり、天然痘が流行し、藤原広嗣の乱など貴族同士、貴族と僧侶などの対立が激化し、世の中が騒然としていました。
そのことに憂慮した聖武天皇は、国を護るため、仏教にのめりこみ、大仏を建立するしかないと思い詰めます。
1-14 大仏を作るために必要とされた行基の力
大仏建立という大事業には、多くの社会事業を行った行基の手腕と民衆を集める影響力に頼る必要がありました。聖武天皇は、行基を東大寺大仏造営の勧進に起用しました。
勧進とは、お寺や仏像の新造、修復のための浄財の寄付を集める人です。
聖武天皇は、大仏建立の詔の中で「一枝の草、一把の土を持ってきた人ならどんな人でも手伝ってもらいなさい」と言っています。その思いと行基の民衆への動員力が重なり合いました。
1-15 行基、仏教界の頂点に上り詰める
この功績によって、行基は仏教界の最高位である大僧正の位を日本で初めて贈られました。
この行基の転身を民衆への裏切りと考える意見もありますが、もし彼が民衆を裏切ったのであれば、民衆から寄進を集めることなどできないはずなので、朝廷が行基の力に着目したということです。
1-16 行基の無念
大仏造営のさなか、行基は喜光寺にて81歳で亡くなりました。
残念ながら、大仏の完成を見ることができませんでした。
1-17 大仏開眼!行基の努力が花開く
大仏開眼供養会の導師を務めたのは、行基が平城京で迎えたインドからの僧、菩提僊那だったので、行基もきっとともに参列していたことでしょう。
奈良にとって、大仏は一つの大きな拠り所でした。大仏建立という壮大なプロジェクトを支え推進した人こそ行基その人でした。
ですから、行基は奈良にとって恩人であり、かけがえのない人なのです。
2.まとめ
行基の偉業をたたえ、近鉄奈良駅前に行基像が建てられました。その行基像は東大寺大仏の方を向いています。今度、確かめてみてください。
そして、東大寺の大仏を見られる時、どうか行基の奮闘を思い出してみてください。
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