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行く前に知っておきたいコンスタンティヌス帝の凱旋門の見どころ

激動の時代を伝える凱旋門

分裂していたローマ帝国を再統一したコンスタンティヌス帝の偉業を称え、315年に建造されました。五賢帝時代の装飾が散りばめられた豪華な凱旋門です。

コンスタンティヌス帝とはどんな人物だったのか?

コンスタンティヌス帝は、当時すでにディオクレツィアヌス帝により財政的に四分割されていたローマ帝国で、そのシステムが行き詰まった時代に、他の正帝と副帝を出し抜く形でのし上がっていく人物です。

当時ローマで権力を握っていたマクセンツィウス帝を312年にテヴェレ川の「ミルビオ橋の戦い」において打ち負かし、その後最後の権力者リキニウスをも破ることにより、324年より帝国の唯一の皇帝の座まで上り詰めました。

313年には帝国内においてキリスト教をも含むすべての宗教を認める「ミラノの勅令」を出しています。その後、腐敗したローマを離れ、現在のイスタンブールに都を移し、コンスタンティノープルと名付けます。

コンスタンティヌス帝の凱旋門はどうして建てられたのか?

この凱旋門は、「ミルビオ橋の戦い」での圧勝後、コンスタンティヌス帝の即位10周年の記念として315年に建てられローマの元老院と市民によって祝われました。

キリスト教を公認した皇帝であるということで、のちの中世期のキリスト教社会により重要視されました。この周辺の古代遺跡はどれも、表面的に飾られていた大理石や、ブロンズ、金箔などが中世期に解体され、様々な教会づくりや貴族の宮殿づくりのために再利用されてしまって、内部のレンガがむき出しで残っているのに対し、「コンスタンティヌス帝の凱旋門」だけは、ほぼ当時のまま保存されてきました。

ローマが衰退の一途をたどること甚だしかった時代に建てられているこの凱旋門は実のところ、他の遺跡を切り刻み、持ってきた大理石の彫刻や浮き彫り、柱を貼り付けることで仕上がっています。リサイクルの先駆的な存在です。ほとんどが、ローマ最盛期の5賢帝たちのモニュメントからのものです。

コンスタンティヌス帝の凱旋門に描かれているストーリーを読み解こう

いくつかご紹介しましょう。
まず、凱旋門上部に、左右対象で人物彫刻がのせられていますが、トラヤヌス帝のフォーラムより持ってこられたと言われる、「ダキアの捕虜像」です。

ダキアは、現在のルーマニアからモルドバにかけての古代の名称です。また、側面上部と、アーチ内部には、トラヤヌス帝のバジリカ・ウルピアより持ってこられた対ダキア戦の様子を刻んだ浮き彫りが見られます。

中間部にこちらも左右対称で丸い浮き彫りが見られますが、これはハドリアヌス帝時代のものです。前後計8枚あり、「イノシシ刈り」や「アポッロ神への奉納」など平和な題材です。浅浮き彫りで古典的な構図なのが特徴です。

また、上部の捕虜像に挟まれた空間に長方形の高浮き彫りが左右2枚ずつ、前後計8枚あるのは、息子のコンモードゥス帝により父のマルコス・アウレリウス帝に捧げられたモニュメントより持ってきたもののようで、対マルコマンニ戦にまつわる歴史「マルコス・アウレリウスの凱旋」や「市民にパンとお金を振る舞う皇帝」などが浮き彫られています。

コンスタンティヌス帝の時代の浮き彫りは、柱の基壇や、半円筒ヴォールトの両端や、中央部に見られる帯状の部分に見られます。特に帯状部分は、マクセンツィオとの戦で勝利に至るまでの過程が表されています。

「ミラノからの出陣」、「ミルビオ橋での勝利」、と、「ローマへの凱旋」などが浮き彫られる帯状部分は、人物の重要度によって大きさが変彫られ、もうすでにキリスト教美術に移行していく時代が感じられます。

この凱旋門は、様々な時代の芸術のパッチワークと呼ぶべき、芸術史上重要なモニュメントです。

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