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日本を揺るがした怒涛の15年!幕末の流れをコンパクトに解説

公開日:2021.10.22 更新日:2022.11.08

目次

幕末って面白そうだけれど、「何がどうなってるのかよくわからない!」という方も多いではないでしょうか。幕末は登場人物が多くて、誰が何をしたのかわかりにくいですよね。

そこで今回の記事では、黒船来航から始まる幕末の流れについてコンパクトに解説したいと思います。

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Pokke編集部
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幕末の流れをコンパクトに解説!日本を揺るがす怒涛の15年とは

幕末の流れ①「動乱のすべては黒船来航から始まった」

朝廷から政治を任されていた徳川幕府が崩壊への道をたどり始めたのは、1853年のペリー来航がきっかけでした。

黒船(軍艦)の脅威を背景に開国を迫られた幕府は、翌年に日米和親条約を結んで下田と函館を開港、長年の鎖国体制は終わりを迎えます。

次にアメリカは、さらなる開港と自由貿易を目的とした通商条約の締結を要求してきます。

幕府は内心では仕方あるまいと思いつつも、「事が重大ゆえに勅許(天皇の許可、許し)を頂いてくる」と時間稼ぎをし、老中・堀田正睦が京に上りました。

勅許によって条約締結を正当化しようとのもくろみもあったためです。

幕末の流れ②「開国で生活が厳しくなり、加熱する外国への敵対心」

しかし、外国嫌いの孝明天皇は、勅許を拒否しました。

思わぬ事態に幕府は慌てますが、大老(最高責任者)に就任した井伊直弼が独断で日米修好通商条約に調印(1858年)。

その後も相次いで他国と通商条約を結びました。天皇の意思をないがしろにされた朝廷は、当然幕府への不満を膨らませます。

加えてその時期は、突然始まった対外貿易の影響で品不足やインフレが発生し、生活が厳しくなったこともあって、武士を中心に外国への敵対心が高まっていました。

やがて、天皇と朝廷の権威を高めようとする尊王論と、外国人を打ち払おうとする攘夷論が結びつき、尊皇攘夷熱が急速に加熱していきました。

幕末の流れ③「安政の大獄と桜田門外の変を経て、舞台は江戸から京へ」

尊皇攘夷運動は結果的に幕政批判につながるため、その動きを危険視した井伊大老は、尊攘派や反体制勢力の公卿・大名・志士ら百余名を弾圧・処刑しました[安政の大獄]。

しかし、多くの恨みを買った井伊は、後に尊攘派の水戸浪士らに斬殺され[桜田門外の変]、幕府の権威は大きく傷つきました。

井伊暗殺で尊攘派が息を吹き返す中、特に勢力を拡大したのが長州藩でした。

急進派の公家と手を結んで朝廷を操り、京都市中では「天誅!」と叫びながら開国派の暗殺を繰り返し、江戸から上洛した将軍家茂に無理やり攘夷決行を迫ります。

ついには下関海峡を通る外国船にいきなり砲撃を加える過激ぶりでした。

幕末の流れ④「暴走の末に長州は都落ちし、京では新撰組が大暴れ」

しかし、長州の余りの過激な行動が国を誤らせることを恐れた孝明天皇の意を受け、会津藩と薩摩藩が中心となってクーデターを実行しました[八月十八日の政変]。

長州藩は三条実美ら7人の急進派公家と共に京から追放されました[七卿落ち]。

京の治安維持のため「新選組」が発足したのも同じ年で、翌1864年には、御所焼き討ちを謀議中だった尊攘派浪士を一網打尽にした「池田屋事件」で、新選組の名は天下に轟きました。

そして、この事件が呼び水となり、過激派に扇動された長州藩は名誉回復を期して京へ攻め上りましたが[禁門の変]、御所を守る会津藩・薩摩藩らの前に敗れ去ったのです。

幕末の流れ⑤「長州衰亡への風向きを一転させた!高杉晋作の挙兵」

御所に兵を向けた長州藩は朝廷の敵となり、長州征伐の勅命が幕府に下りました。

さらに追い打ちをかけるように、英・仏・蘭・米の四国連合艦隊に下関が攻め落とされ[下関戦争]、立て続けに敗れた長州藩では保守派が主導権を奪還して、幕府に恭順の姿勢を示しました。

そして、征長軍で交渉の全権を委任された薩摩の西郷隆盛は、長州の弱体化を目論む幕府の思惑に反して降伏をあっさり受け入れ、第一次長州征伐が終結しました。

その裏には「これ以上長州を弱体化させると、次は薩摩が幕府の標的にされる」という西郷の深い読みがありました。

しかし、保守派政権に反発した高杉晋作と伊藤博文が兵を挙げ[功山寺挙兵]、内戦を制して藩の主導権を握ります。

そして、禁門の変の後に亡命していた実力者の桂小五郎(後の木戸孝允)も藩政に復帰し、長州藩は再び幕府に強腰で臨み始めました。

幕末の流れ⑥「犬猿の仲の薩長を坂本龍馬が仲介し、高まる倒幕の機運」

「八月十八日の政変」と「禁門の変」で2度敵対した薩摩藩と長州藩は、犬猿の仲と言える仇敵同士でした。

この両藩の仲を取り持ち「薩長同盟」成立に一役買ったのが、両藩の実力者である西郷と桂の双方から信頼を得ていた土佐の坂本龍馬です。

二大雄藩の薩長が水面下で手を結んだことで、時代は一気に倒幕へと傾くことになります。

一方長州征伐の結果に不満だった幕府は、後に第二次長州征伐を企てて強引に開戦しましたが、兵力で劣る長州側に惨敗を喫しました。

将軍家茂の急逝を理由に休戦にこぎつけたものの、幕府の権威はこの敗戦で地に堕ちてしまいました。

そこで、この難局打開への期待を背に、「家康の再来」と英名を称えられた徳川慶喜が第15代将軍に就任。幕末史はクライマックスへと突入します。

幕末の流れ⑦「慶喜捨て身の大博打!大政奉還も実らず徳川幕府は閉幕」

薩長がイギリスの支援を受けて倒幕準備を進める一方、新将軍の慶喜はフランスからの援助で軍制改革を進めながらも、内乱の回避を模索していました。

そんな慶喜に土佐藩前藩主の山内容堂が「自ら政権を返上してはいかが?」と提案。慶喜はその提案を受け入れ、京都の二条城で大政奉還を諸藩に宣言しました。

朝廷は行政能力がないため、いずれ自分に主導権が回ってくるだろうと読んだ慶喜の、捨て身の大博打でした。

しかし、大政奉還によって倒幕の名分が失われた上に、新体制が慶喜主導になる事態を恐れた倒幕派は、公家の岩倉具視を中心に徳川抜きの新体制を打ち立てるクーデターを計画。

薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の5藩と連携して「王政復古の大号令」を発し、幕府の廃止と新体制樹立を宣言したのです。

こうして約260年続いた徳川幕府の治世は幕を閉じました。

まとめ

いかがでしたでしょうか。わずか15年の間に様々な人間ドラマが凝縮されているのが、幕末史の魅力です。

坂本龍馬、高杉晋作、西郷隆盛、新撰組など心引かれる題材も数多くあるので、この記事をきっかけに少しでも深掘りして頂けると幸いです。

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