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アメリカ・セイラムを巡って学べるダークツーリズム

Part1. 魔女裁判とは何だったのか


魔女裁判とは?アメリカ・セイラムを巡って学べるダークツーリズム」では、3つのパートに分けて魔女裁判が実際に起こったアメリカ・マサチューセッツ州セイラムという地域を巡ります。セイラムの魔女裁判が行われた経緯と、ヨーロッパで起こった魔女裁判との異なる点を学び、実際に魔女裁判を追体験できる場所を紹介します。

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魔女裁判とは何か

魔女裁判は15世紀から17世紀にかけて行われた迫害のひとつです。 主に舞台となったのはヨーロッパと、ヨーロッパの植民地時代のアメリカです。 ヨーロッパではアルプス山脈周辺の小さな村で多くありました。 とされていましたが、近年では民衆が主導していたと判明しています。 魔女裁判では魔女と告発された人は裁判にかけられました。 魔女と告発されたのは8割以上が女性でしたが、男性も少なからず含まれていたようです。

魔女裁判の根本的な概念として、魔女という存在があります。 魔女は14世紀ごろ新しく出来た概念で、悪魔と契約して魔術を行い、人々に災いをもたらすと考えられました。 魔女裁判では魔女の容疑をかけられた者に対して裁判という名の拷問を施し、自白を強要していました。

自白の有無にかかわらず、ほぼ全員が魔女だと断定されました。 拷問中に亡くなる者も少なくありませんでした。 また、自白をすると魔女だということで主に火炙りで処刑されました。例外でも獄中で亡くなったりと、凄惨な様子でした。

魔女裁判が行われたなかでも、植民地時代にニューイングランドと呼ばれたアメリカのマサチューセッツ州セイラムの事件はとても有名です。 犠牲者の数はヨーロッパと比較して多くはないものの、特徴的な魔女裁判が行われました。

では、セイラムの魔女裁判に何があったかご紹介します。

セイラムの魔女裁判

セイラム魔女裁判の概要

セイラムの魔女裁判では、精神が不安定になった少女が集団となって魔女の告発を行います。セイラムの人々が少女たちの告発を信じて魔女裁判は開かれ、信心深い者も貧しい者も処刑されました。

セイラムの魔女裁判はとある商人に批判されてイギリス中で有名になり、当時マサチューセッツを管理していた総督が魔女裁判を終わらせ、魔女とされた人々に正式に謝罪をしました。

それでは、セイラムの魔女裁判を時系列で詳しく見ていきましょう。

セイラム魔女裁判が始まる背景

セイラムの環境

事件が起こったのは都会のセイラム町ではなく、当時小さな村だったセイラム村、現在のダンバースです。

セイラムはイギリスを追われた清教徒(ピューリタン)が集まった土地です。ピューリタンとは、キリスト教のプロテスタント派の厳格な一派で、当時はイギリスの王政との対立があり、イギリスを出てアメリカで理想郷を作っていました。

セイラムは、ネイティブアメリカンやフランス人入植者の侵略も多い土地でした。村の人々に心休まる時はほとんどなかったと思われます。さらに1692年は大寒波の年でもあったという記録が残っています。

こうした厳しい環境から、セイラム村の牧師であり、強い発言力を持っていたコットン・メーザーは、預言者エレミアが主張した「契約」を中心にした説教をしました。

その説教の内容とは、セイラム村に住む人々を始め、ニューイングランドの民衆は、選ばれた者であるにもかかわらず、神との契約を正しく果たさなかったため、堕落した者を悔い改めるために厳しい状況に置かれるようになったと説くようになったのです。

この説教はいつしか「魔女」や「悪魔」に焦点が当てられるようになりました。

こうした厳しい環境から、セイラム村の牧師であり、強い発言力を持っていたパリス家は、説法の内容を次のように切り替えます。預言者エレミアとの契約によって厳しい環境でも耐えねばならないというそれまでの説法を止め、「悪魔」や「魔女」が原因で現在の状況がもたらされていると説くようになったのです。

セイラム村のパットナム家VSポーター家

もう一つ、セイラムの魔女裁判の前提として特筆すべきことに、権力争いが挙げられます。

当時、長くセイラム村で裕福な家系であったパットナム家は急速に勢力を失いつつある一方、代わりにポーター家が台頭し、村で一、二番目の裕福な家系となっていました。

魔女裁判の告発者側はパットナム家の関係者であるのに対し、魔女として容疑をかけられた側はポーター家の関係者でした。

パットナム家がポーター家の勢いを失速させる意図があったと考えられます。

セイラムの魔女裁判のきっかけ 1692年1月

セイラム村で最初に異常をきたしたのはベティとアビゲイルという、いとこ同士の二人の少女でした。

二人は突然暴れ出すなどの行動を取ります。医者からは悪魔憑きだと診断されました。異常な行動は伝染していき、他の少女たちも二人と同様に暴れたり体の痛みを訴えたりしました。

少女たちは自分を苦しめている魔女がいると主張し始めます。 少女たちの訴えを受けて、当時ベティの家で奴隷として使われていた黒人女性のティトゥバが拷問を受け、魔女だと自白しました。 ティトゥバは祖先より伝わる願い事を叶えるまじないを二人に教えたり、まじないで未来を占ったりしたとのことです。

セイラムの魔女裁判のはじまり 1692年2月

ティトゥバの自白とともに、もう二人の女性が浮かび上がりました。 サラ・グッドとサラ・オズボーンです。

サラ・グッドもサラ・オズボーンもセイラムの村の中では貧しく、立場の弱い者でした。 ティトゥバ、サラ・グッド、サラ・オズボーンを交えた三人を魔女の被疑者として、魔女裁判は開かれました。

ティトゥバはこの二人に唆され、魔女になったと証言します。ティトゥバは「自白すれば減刑する」と求められるままに自白したのです。ティトゥバは言葉通りに処刑を免れました。

サラ・オズボーンは身の潔白を訴えますが、受け入れられず、獄中死してしまいました。 サラ・グッドは、夫から魔女であると証言されてしまい、不利な立場になりました。 さらに、魔女裁判ではサラ・グッドの4歳の娘も投獄されてしまいます。そしてこの4歳の娘に彼女が不利になる証言をさせました。

終わらないセイラムの魔女裁判 1692年3月〜1692年10月

ティトゥバが自白し、サラ・オズボーンも有罪、サラ・グッドも有罪と確定しましたが、少女たちは更に魔女を告発していきました。

セイラムの魔女裁判からは200名以上の被疑者が生まれました。この裁判での犠牲者は25名です。処刑された者は19名、1名は拷問中に死亡し、5名は獄中で亡くなりました。

セイラム村の著名な人物も魔女の容疑をかけられ、犠牲者となりました。

マーサ・コーリーは犠牲者の中でも有名な人物です。教会の正会員として知られ、周囲からは敬虔な信者と認識されていました。マーサの裁判中、少女たちに症状が現れ、騒いだことが証拠となり、絞首刑になります。

マーサ・コーリーの夫であるジャイルズ・コーリーも同様に魔女の容疑をかけられました。ジャイルズ・コーリーは拷問中に体に積み上げられた石による圧死で亡くなりました。

レベッカ・ナースはセイラム村で農場の貸し借りをし、尊敬されていた人物でしたが、訴えられて処刑されてしまいます。

ジョン・プロクターはセイラムの地主でした。ジョン・プロクターは妻が告発されたことに対して疑問を発しました。するとジョン・プロクター自身も告発されてしまいます。

セイラムの魔女裁判の収束 1692年10月〜1693年5月

商人トーマス・ブラットルの批判

魔女裁判が見直された最初のきっかけは、1692年10月8日付けでセイラムの近くの町ボストンの商人トーマス・ブラットルがイギリスの牧師宛にセイラムの魔女裁判を批判する手紙を出したことです。

トーマス・ブラットルの手紙では、セイラムの魔女裁判が誤った手続きで裁判をしていることが批判されていました。手紙はボストンで広まり、イギリスの大統領も目にしたそうです。

魔女裁判の告発の疑問

トーマス・ブラットルのセイラム魔女裁判の批判がイギリスで世論として広まったころ、少女たちの告発は特定の地位の人々にも及ぶようになりました。

少女たちはハーバード大学の学長であり牧師のサミュエル・ウィラードや、マサチューセッツ湾直轄総督のウィリアム・フィリップスの妻を告発しました。 さすがに裁判所の判事たちも、少女たちの告発に疑問を持つようになりました。

セイラムの魔女裁判の終了

総督のウィリアム・フィリップスは裁判所を解散させました。そして裁判の見直しを行い、無罪判決を次々と出していきました。 最終的には1693年5月、総督は魔女として捉えられた囚人に対し詫び状を出しました。ここでセイラムの魔女裁判騒動は収束を迎えます。

しかし、魔女には保釈金の支払いが命じられたので、保釈金を出せない者は出られないという理不尽なものでした。死後に家族が保釈金を払って出られたケースも見られました。

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