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「花畑」の名がつくカンポ・ディ・フィオーリ広場の歴史と見どころ

「花畑」の名がつく小さな広場

カンポ・ディ・フィオーリで毎朝開かれる朝市は、自由で活気に溢れ、通常の土産物屋では買えないようなものが多く見られます。

カンポ・ディ・フィオーリの朝市の様子とその歴史

カンポ・ディ・フィオーリ朝市は青空市場で賑わう、庶民的な地域です。

広場の周囲には、所狭しとレストランが立ち並び、週末の夜になると、ヴィネリアといって手頃なワインをグラスで出す立ち飲みの店があり、若者たちが集う趣のある広場です。

1400年ごろまでは、花畑が広がる地域であったため、「花の広場」と呼ばれていました。

1440年より、当時の教皇により、石畳で舗装され、店や宿屋、本や、飲食店などが立ち並ぶ、活気のある広場となっていきます。

周囲には家も立ち並び、商売人や巡礼者など様々な人の往来がある地域ですので、週に2度馬市場も開かれていたようです。この歴史ある市場にまつわるエピソードは枚挙にいとまがありません。

かつては公開処刑や鞭打ち刑の場だったカンポ・ディ・フィオーリ

カンポ・ディ・フィオーリは、公開処刑の場または鞭打ち刑の場としても使われておりました。

1600年、ドメニコ会の修道士であり、哲学者そして、近代科学の先駆者とも言えるジョルダーノ・ブルーノはここで当時の教皇クレメンス8世の命により、火刑に処せられます。

当時のカトリック教会は厳格でキリスト教義に反する説を唱える者や疑わしい者を幽閉し、拷問し、火あぶりにしていました。

ヴィクトル・ユゴーなどによって再評価されたジョルダーノ・ブルーノの銅像

ブルーノは、コペルニクスの地動説を擁護し、カトリック教の禁書を熟読し、当時のカトリック教の教義を否定する立場にいました。異端審問刑務所にて、拷問を交えた尋問が何年にもわたって行われるも、彼は自身の説を撤回せず、異端の罪で処せられることになるのです。

19世紀後半になって、ヨーロッパ中のインテリたちの間で、ジョルダーノ・ブルーノは再評価を受け、ヴィクトル・ユゴーなどが参加し、委員会が開かれ、火あぶりが行われた場所にブルーノの銅像を建てる計画が進みます。現在広場の中央に立っているのがまさにそれで、1889年完成、エットレ・フェッラーリの作品です。

さて、この広場の近くの道を少し地図で見てみてください。中世期の同業者それぞれが軒を連ねていた道が、そのまま名前になっています。ジュボナーリ通りは、上着屋、仕立屋、カッペッラーリ通りは帽子屋、バウラーリ通りは(こうり)、カバン屋、トランク屋といった意味です。

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