バルセロナのモンジュイックの丘の絶景と見どころを紹介
様々なデザインのオリンピック施設やお城から見るバルセロナの街
モンジュイックの丘とは、「ユダヤ人の山」という意味合いを持ち、この丘にはかつて墓地があったので、こう呼ばれていました。
実際、フランコ独裁政治時代までは、モンジュイック城を刑務所として使用し、銃殺刑に処された政治犯は近くの墓地に埋葬されていたそうです。
考古学上確認されているように、この丘では、紀元前3世紀から紀元前2世紀頃のイベリア人の町の集落跡が発見されています。
また町を守るための要塞としてモンジュイック城が建設されましたが、1715年のスペイン継承戦争時代にフランス軍に占領されたという歴史があります。
モンジュイック城は、「城」と名前がついてはいても、王様が住んだ豪華なお城ではなく、町を守るための軍事施設として建てられたものです。
この城は、16世紀に監視塔として建てられたのがはじまりでしたが、17世紀には監視塔としての役割のみならず、他国の攻撃から町を守っていくのが目的の軍事施設でした。
城壁のところには、当時使用した砲台が置かれています。
城塞の中には、軍のための食料庫や調理場、地下には貯水庫が設置されていました。
戦いの最中に兵士達へ与えるための飲み水と、大砲を冷やすための水が必要だったからです。
大砲を1度打つと砲台がかなり熱くなり、それを冷やしてから再度打った方が弾がよく飛ぶのだそう。そのため水を確保しておく必要があったわけですね。
なお、この時に作った貯水庫は、いまでも元気に働いており、モンジュイック近くのエリアへ供給されているというのも驚きです!
1992年のバルセロナオリンピックでは、日本人選手もたくさん活躍しました。
岩崎選手が水泳の平泳ぎで金メダルを獲得し、男子マラソンでは谷口選手の「こけちゃいました・・」発言も話題に。
また、女子マラソンで銀メダルを獲得した有森裕子選手が、金メダルのエゴロワ選手と繰り広げたデッドヒートは見応えがありました!
ゴールだったスタジアム前まで続く熾烈な争いは、見る者をひきこんでいきましたね。
その時のゴールこそが、このスタジアムで、あの時の急勾配な坂道は、「モンジュイックの丘」だったわけです。
このスタジアム西側には、広場が設けられており、屋内競技場と通信塔が見えています。
両方とも、オリンピックにあわせて建設されました。
オリンピックスタジアムは、何もイベントが行われていなければ、無料で中へ入ることができます。
競技場の隣にある白いタワーは、「モンジュイックタワー」とよばれる通信塔。
スペインの通信業者「テレフォニカ」のものですが、もともとは、バルセロナオリンピックのシンボルタワーとしてモンジュイックの丘に建てられました。
骨や翼を組み合わせたようなフォルムの独特のデザインは、スペインバレンシア生まれの著名な建築家「カサトラバ」が手掛けました。
他にカサトラバの作品として代表的なものは、アテネのオリンピックスタジアムやスウエーデンの高層マンション、そしてバレンシアの芸術科学都市、他にも空港や橋など・・・世界的に幅広く活躍している建築家です。
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