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火山灰に埋もれた古代ローマ都市ポンペイ遺跡の歴史と見どころ

火山灰に埋もれた古代ローマの都市

歴史に詳しくなくても、「ポンペイ」という地名は聞いたことがある方が多いでしょう。

ポンペイは、紀元前9世紀からオスク人やギリシア人、エトルリア人によって栄えた都市で、古代ローマ時代になると劇場や水道も完備され、ローマ皇帝やローマの貴族に愛される街となります。

当時としては最新の設備や建物が揃ったこの街で、貴族たちは商業活動を繰り広げていたとも伝えられています。

まずは地震から始まった?ポンペイの歴史と災害の様子

西暦62年2月5日、大地震がポンペイを襲います。

寺院や行政の中心であった建物が崩壊し、富裕層はポンペイを放棄してしまいます。

街の経済力も著しく低下しましたが、ネロ帝やそのあとを継いだヴェスパシアヌス帝はポンペイへの助力を惜しみませんでした。

そして、街がまだ復興しきっていない西暦70年8月24日から翌日に起こったのが、ヴェスビオ火山の噴火です。

噴火の直前には、ヴェスビオ火山の頂上付近に、松の木の形をした雲が見えたという記録も残っています。

この噴火により、轟音とともに火山が噴火、雨のように火山灰や火山礫が降り注ぎ、5時間で火山灰は1メートルも積もったそうです。

翌日の朝6時には、積もった火山灰は2メートルに達し、7時から8時頃に発生した二度目の噴火により、1回目の噴火で生き残っていた人たちも逃れるすべもなく亡くなりました。

ポンペイの噴火で生き残った人、亡くなった人。

当時のポンペイの街の人口は、推測で6千人から2万人の人口であったと言われていますが、火山灰の下から見つかった遺体はおよそ1,150体。 風化するなどして遺体が見つからなかったものを含めると、ポンペイの街の死者は1,600人ほどではなかったかと推測されています。

噴火前の地震や、一回目の噴火の段階でポンペイから非難し助かった人も多かったようです。

後世、発掘の際に見つかった1,150体に及ぶ遺体のうち、394人は火山灰の層の下部から発見され、そのほとんどが倒壊した屋根や建物の下敷きになっていました。

650体は、火山灰の上部で亡くなっており、2度目の噴火の熱風で窒息したと考えられています。

当時のローマ皇帝ティトゥスは救助のための使者を送ったものの、壊滅状態のポンペイになすすべがなかったそうです。

この大噴火で、ヴェスビオ火山も山の形が変わったといいます。

すべてが火山灰に埋まったポンペイの街では、通常は起こる天災後の略奪さえ起きなかったそうです。

18世紀の半ばに、考古学者とエンジニアたちによって発掘が始まるまでおよそ1700年間、ポンペイの街は火山灰に埋もれたままでした。

そして、1997年に、「ポンペイ、エルコラーノおよびトッレ・アヌンツィアータの遺跡」が、ユネスコの世界遺産に登録されました。

ポンペイ遺跡の見どころスポットをご紹介!

ポンペイ遺跡は広く、見どころスポットがたくさんあります。ここでは、その代表的な見どころをご紹介します。

1.マリーナ門

マリーナ門は、ポンペイに残る7つの門のうちのひとつです。

街の西側にあります。

海に向かっているため、この名前がついています。

イタリア語では海のことを「マーレ」というのです。

古代ローマの建築の特徴ですが、入り口の上部が綺麗なアーチ型になっています。

このアーチ型は、上部の重みを支えるためにローマ人が常に建築物に使用していた技術です。

2.フォーロ

ローマ時代には政治、宗教、商業の中心地でした。

政治家の演説や宗教行事、商業上の取引、市民たちの集会等々、あらゆる社会活動がここで行われていたそうです。

3.悲劇詩人の家

この家は、ほかのポンペイに残る家屋に比べて小さめではあるのですが、有名なのはこの家に残る「猛犬注意」のモザイクです。

オリジナルは、ナポリ考古学博物館が所蔵していますが、ひもにつながれた赤い首輪の犬のモザイクはとてもモダンです。

この家が「悲劇詩人の家」と呼ばれる理由は、食堂に残るギリシアの悲劇叙事詩「イーリアス」であったためです。

4.ファウヌスの家

名前の由来は、貯水のために置かれた桶に、森の神ファウストのブロンズ像が見つかったためです。

そのポーズから、「踊るファウスト」として有名です。

この邸はポンペイに残る家屋の中でも、最も大きなもののひとつです。

この家が有名なのは、その広さと美しいブロンズ像だけではありません。

現在はナポリの考古学博物館にある横5メートル、縦3メートルの巨大なモザイク画が見つかったからです。

このモザイク画は、アレクサンダー大王の戦いをテーマにしたもので、決死の表情のアレクサンダー大王の横顔を世界史の教科書でごらんになった方も多いともいます。

5.パン屋の家

西暦62年の大地震で、この家は大きな被害を受け、西暦70年のヴェスビオ火山の噴火時はまだ再建が完遂していませんでした。

1階部分はパンの製造を販売、2階部分に住居があったようです。

古代ローマの一般的な家屋は、玄関を入った奥に貯水槽を置いた中庭がありました。

6.ヴェッティの家

ポンペイの遺跡ではおそらく最も有名な富裕な商人の家です。

ヴェッティ兄弟は、貴族の出身ではなく、解放奴隷という身分でした。

古代ローマでは、身分にある程度の流動性があったので、本人の実力次第ではこのような家屋を所有することも可能であったのです。

この家は何度か改築したあとが見られ、おそらくヴェッティ兄弟がこの家を購入した際と、62年の地震の後と推測されます。

7.金色の天使たちの家

この家が「金色の天使たちの家」と呼ばれるのは、主人の寝室の壁の装飾が可愛い天使たちであったからです。

愛らしい天使たちが、さまざまな仕事をしている様子が非常に高い技術で描かれています。

オリジナルのその絵は、ナポリの考古学博物館が所蔵しています。

8.娼婦の家

ポンペイが「悦楽の都」などと呼ばれているのは、こうした娼家が、ポンペイの街だけで25も見つかっているからです。

面白い特徴があり、こうした娼家はたいがい、目抜き通りを一本入った裏通りに作られているのです。

また、ローマ帝国の街ならばどこにでもあった、公衆浴場の2階が娼家になっていることもありました。

9.スタビア浴場

この浴場が建設されたのは、紀元前4世紀から3世紀頃と言われています。

まだポンペイの街が小さかった時代には、この辺りは街の中心から外れた墓地となっていました。

紀元前2世紀に、浴場は規模を大きくし、それまでの混浴から男湯・女湯にわかれました。

正面入り口から入り、右手手前にあるのが男性用の浴場、その奥が女性用になっています。

入り口左手にあるのが、当時の浴場にはつきものであったスポーツジムのようなものです。

10.大劇場

紀元前80年くらいに、劇場はローマ仕様に大改築され、アウグストゥス初代皇帝の時代にポンペイの名門貴族が出資をし、この大劇場とさらに隣接する小劇場が完成しました。

ひづめ型をした劇場は、5,000人を収容できたそうです。

施設情報

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