潜伏キリシタンと長崎の歴史を巡る旅
2. 潜伏キリシタンの歴史Part2
潜伏キリシタンの発見
「潜伏キリシタンとは何か?世界文化遺産に登録された長崎の歴史を学ぶガイダンス」では、長崎県の「潜伏キリシタン」について6つのパートに分けてご紹介します。記事を通して、潜伏キリシタンがどのような存在なのか、その劇的な歴史背景、ユニークな信仰の特徴など、潜伏キリシタンの魅力がわかります。
2つ目のパートでは「潜伏キリシタンの歴史」について。
Part1とPart2の2部構成となっています。
Part2では、潜伏キリシタンの歴史をご紹介します。
潜伏キリシタンが主に長崎で200年もの間身を隠していたことや、明治期に潜伏キリシタンが発見され、禁教が解かれていった経緯が学べます。
1. おさらい
PART①は潜伏キリシタンの前史として、キリスト教の伝来から、禁教によってされ司祭がいなくなるまでをご紹介しました。
キリスト教は日本で順調に広まりましたが、豊臣秀吉や徳川家康らはその危険性に注目し、キリスト教を禁教にしてしまいます。
幕府がキリシタンの取り締まりを行う中、日本で唯一の司祭が殉教し、日本からキリスト教指導者がいなくなってしまいます。
こうして幕府から身を隠して信仰を続ける「潜伏キリシタン」が生まれます。
では前回学んだことを踏まえて、明治期の潜伏キリシタンの歴史について学んでいきましょう。
2. 共同体の形成と移住
司祭を無くしたキリシタンたちは、地域ぐるみで身を隠し、独自の信仰を作ります。
そして潜伏キリシタンは迫害による「崩れ」が生じ、場所を追われ、長崎の五島列島へと移住し、信仰を続けていきました。
250年の潜伏
司祭の殉教から、潜伏キリシタンが明治に入ってその存在が知られるまでに、約250年ほどの期間があります。
その間、潜伏キリシタンたちは幕府の取り締まりの目を欺くために、仏寺の檀家や神社の氏子に入り、表向きは仏教や神道を信仰しました。地域のキリシタン信仰組織は共同体となり、全員でキリスト教の信仰を守りました。
ユニークな信仰
潜伏キリシタンの間では、組織の役職を持った者を中心に、洗礼の授け方、オラショと呼ばれる祈りの歌、聖像や聖画、カトリックの祝日を記した教会暦が親から子へと受け継がれました。
カトリックの元々の祈りや信仰とは少しずつ変化し、潜伏キリシタン独特の信仰が形成されていきました。
とくにオラショは口伝のみだったため、その発音は元のラテン語とは全く異なり、共同体ごとにも違いがありますが、潜伏キリシタンに大切に受け継がれていきました。
また、暦もカトリックとは変化しており、作物を植えてはいけない日などが設けられ、共同体の中で破らないよう守っていきました。
「崩れ」の発生|1657年〜1868年長崎
潜伏キリシタンがいくら身を隠していても、密告などにより共同体全体が潜伏キリシタンだと暴かれる事件は多々ありました。
潜伏キリシタンの共同体が見つかり、キリスト教から仏教や神道に改宗することを求められ、拷問に至ることを「崩れ」と呼びます。
主な崩れは以下になります。
・1657年 郡崩れ(明暦3)
・1660年 豊後崩れ(万治3)
・1661年 濃尾崩れ(寛文元)
・1790年 浦上一番崩れ(寛政2)
・1805年 天草崩れ(文化2)
・1856年 浦上三番崩れ(安政3)
・1867年 浦上四番崩れ(慶応3)
・1868年 五島崩れ(明治元)
例えば、郡崩れでは約608人が検挙されました。99人は釈放されましたが、取り調べ中に78人が死亡、20人が終身刑、411人が斬首刑となりました。
時が経つとキリシタンの反乱はほとんど行われなかったため、崩れが生じても役人からの注意だけで終わる場合もありました。
しかし大半は拷問を受け、改宗を求められています。
五島列島への移住|1716年長崎
長崎の五島藩は、同じく長崎の大村藩に開拓のため住民の移住を求めました。
五島列島には当時ほとんど集落がなく、荒れた土地になっていたので、開拓した者にはその土地も与えられるという条件でした。
潜伏キリシタンは身を隠す地を求め、開拓した土地がもらえるという五島列島へと移住しました。
集まったのは野首と呼ばれる島でしたが、既に住民が住んでいたため、移住してきた者に与えられたのは急斜面の肥沃ではない土地でした。
潜伏キリシタンはこの斜面に家を建て、集落を形成しました。あまり作物も取れない中で貧しい生活を送ります。
野首島以外にも五島列島にはだんだんと人が広がり、その多くが潜伏キリシタンでした。
潜伏キリシタンたちは代々「孫七代耐えれば報われる日が来る」という予言を信じ、厳しい状況に耐えていました。
そして予言通り、幕末期に転機が訪れます。
3. 信徒発見
鎖国を続けていた日本に対し、アメリカ合衆国は開国を求めました。日本はこれを承諾し、鎖国をやめて開国しました。
開国と共に諸外国人が日本に出入りするようになり、その一環で外国人用に大浦天主堂という教会が建てられました。
潜伏キリシタンは大浦天主堂に赴いて司祭にキリスト教信仰を告白し、潜伏キリシタンが「発見」される歴史的事件が起こります。
日米和親条約|1854年日本
鎖国を続けていた日本はたびたび武装した諸外国と衝突し、1825年に異国船打払令を発布しました。
異国船打払令は外国船を追い払う法律で、諸外国との取引や交流を拒絶しました。
1840年には大国だと思っていた清がアヘン戦争でイギリスに大敗したことをきっかけに異国船打払令は撤廃され、薪水給与令が出されます。
鎖国は緩和されましたが、依然として続きました。
1853年、神奈川の浦賀沖にアメリカ合衆国の艦隊が現れました。
艦隊の司令長官であるペリーはアメリカ合衆国大統領国書を提出し、日本を離れました。
幕府は一年に及ぶ朝廷との協議ののち、再び現れたペリーと日米和親条約を交わしました。
日米和親条約をきっかけに、日本はアメリカ以外の諸外国とも貿易を始めました。
大浦天主堂での「信徒発見」|1865年長崎
1865年、大浦天主堂で潜伏キリシタンが信仰を告白し、キリスト教が日本で受け継がれている事実が世界中に知れ渡りました。
「信徒発見」が起きた背景には日本とフランスの国交樹立があります。
1858年に日仏修好通商条約が結ばれ、日本にフランス人も訪れるようになります。
日本に滞在するフランス人は「日曜日に礼拝する教会が欲しい」と願い、布教は行わない前提で1864年に大浦天主堂が建てられました。
大浦天主堂は「フランス寺」と呼ばれ、見物客が訪れました。
ある日、大浦天主堂のプチジャン司祭が祈りを捧げていると、15人の日本人が訪ねてきました。
15人の日本人はプチジャン司祭にこう伝えます。
ワタシノムネ、アナタトオナジ
出所:いま蘇る、キリシタン史の光と影。, 第11話信徒発見と長崎の悲劇
15人の日本人は潜伏キリシタンでした。
プチジャン司祭は日本でキリスト教が途絶えず、250年もの間受け継がれていた事実を悟りました。
プチジャン司祭はとても喜び、今も現存する大浦天主堂のマリア像の前に彼らを導きました。
日本での信徒発見はカトリック関係者に知られ、劇的な事件として歴史に刻まれています。
4. キリスト教の解禁
時代が明治になると、キリスト教の迫害が諸外国から非難を受け、迫害はおさまりました。
それだけではなく、大日本帝国憲法の発令により、日本人は信教の自由を獲得したのです。
浦上四番崩れと五島崩れ|1867〜1868年長崎
1868年、日本では大政奉還が起きると、主権が天皇へと移り、新たに明治という時代を迎えました。しかし、キリスト教の取り締まりは明治政府でも受け継がれることが名言されます。
大浦天主堂という心の拠り所を得た長崎の浦上地域の潜伏キリシタンたちは、1867年に「葬式を仏式ではなくカトリック式で行う」と口上書を提出します。
諸外国の非難が考慮され、慎重に取り調べが行われたものの、潜伏キリシタン68人が捕縛され、激しい拷問が行われました。
五島列島でも摘発が始まり、捕らえられた潜伏キリシタンに対して、牢屋の窄と呼ばれる狭い牢屋に200人以上を詰め込む拷問が行われました。
禁教令の高札が降ろされる|1873年日本
明治政府は諸外国と条約を交わしていましたが、知識不足もあり、外国人を裁けなかったり、税を定められなかったりと不平等な条約内容になっていました。
この不平等な条約が交わされた原因の一つが政府によるキリスト教迫害にありました。
信仰の自由を国民に与えない国は野蛮であるという諸外国の認識を理解した明治政府は、1873年に禁教令の高札を降ろし、キリスト教の迫害をやめました。
1879年には、四度の崩れが起こった浦上に小さな聖堂が建立されました。この聖堂は大正になると浦上天主堂という煉瓦造りの大きな教会となり、潜伏キリシタンの心を支えました。
大日本帝国憲法|1889年日本
1889年、明治政府はドイツの憲法を下敷きにして大日本帝国憲法を定めました。
大日本帝国憲法では信教の自由が定められており、キリスト教も法律の上認められるようになりました。
実際のところ、大日本帝国憲法は政治の邪魔をしない限りで信教の自由を認めているのみであったため、森有礼など、キリスト教を信仰している噂がある政治家が暗殺されることもありました。
表向きは大日本帝国憲法によって迫害が撤廃され、キリシタンたちはカトリックに復帰し潜伏する必要がなくなったと言えます。
しかし、潜伏キリシタンの文化は現代でも継承されています。
次の章で少し掘り下げます。
5. かくれキリシタンの誕生
潜伏キリシタンの中からは、カトリックに復帰せず、潜伏した250年の間に形成された独自の信仰を貫く「かくれキリシタン」が誕生しました。
かくれキリシタンがカトリックに復帰しない理由はさまざまです。
先祖からの伝統形態を守りたい、習慣を捨てるのが怖い、カトリックが厳格すぎる、などが挙げられます。
彼らが信仰しているのは聖母マリアと仏像が合体した「マリア観音」や潜伏期間中に殉教したものたちの墓、代々伝わってきた聖具などです。
オラショという祈りの歌も継承しており、その面白さに魅了された音楽家が多数存在し、楽曲も作られています。
かくれキリシタンは地元長崎では「ふるキリシタン」「かくれ」などと呼ばれ、主に平戸、生月島、五島など、長崎の外海地域に集中しています。
気になるかたは訪れて体感してみてはいかがでしょうか。
6. まとめ
PART1では日本でキリスト教が禁教となり、司祭が殉教するまでを辿りました。
PART2では禁教が続いたことで、キリシタンたちが江戸時代から明治まで、信仰を隠す潜伏キリシタンとなり、禁教が解かれるまでを説明しました。
潜伏キリシタンは信仰を導く司祭をなくしたことで、独自のユニークな信仰を形成していきます。
ときには崩れが生じ、幕府から弾圧を受けながらも、五島へと移住したりして信仰を貫きました。
幕末から明治にかけて日本が開国したことにより、潜伏キリシタンの存在がカトリックに明らかになる信徒発見という歴史的事件が起こります。
キリスト教の迫害は世界から非難され、ようやく禁教が解かれます。
禁教が解かれ、潜伏キリシタンからカトリックへ復帰する者もいる一方、カモフラージュだったはずの信仰の仕方を守り続けるかくれキリシタンも誕生しました。
潜伏キリシタンのことがよりお分かり頂けたでしょうか。
それではどのような弾圧が生じたのか学んでいきましょう。
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