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潜伏キリシタンと長崎の歴史を巡る旅

3. 潜伏キリシタンが受けた弾圧 迫害と拷問の歴史


潜伏キリシタンとは何か?世界文化遺産に登録された長崎の歴史を学ぶガイダンス」では、長崎県の「潜伏キリシタン」について6つのパートに分けてご紹介します。記事を通して、潜伏キリシタンがどのような存在なのか、その劇的な歴史背景、ユニークな信仰の特徴など、潜伏キリシタンの魅力がわかります。

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3つ目のパートでは「潜伏キリシタンが受けた弾圧」について。

この記事では、潜伏キリシタンが受けた迫害や拷問を知り、どうして潜伏するに至ったのか、潜伏しなければどのようなことが起こったのか学べます。

1. 概要

潜伏キリシタンの歴史は苦難の連続です。

キリスト教が日本で禁教になると、幕府はキリシタンに追放や改宗を求め、弾圧しました。信仰を守るために身を潜ませた潜伏キリシタンは、たびたび「崩れ」と呼ばれる弾圧に遭います。

カトリックのキリスト教は、この世に生きていることが罪滅ぼしであるという考えに基づいています。そのため、スペイン・ポルトガルから渡日した宣教師は拷問を拒否することは少なく、むしろ殉教して天国に行くことを誇りに思いました。

潜伏キリシタンにも殉教して天国に行けるという考えが広がっており、迫害を受けても棄教する信徒はあまりいなかったようです。

では、日本でキリスト教の迫害がどのように行われていたのかご紹介します。

2. 日本二十六聖人の殉教|1597年

日本二十六聖人の殉教は、サン・フェリーペ事件を発端に、豊臣秀吉が命じたキリスト教の迫害です。

26人の宣教師が捕らえられ、拷問を受けて処刑されました。 歴史編でもご紹介しましたが、さらに詳細をご案内します。

要因

1596年、スペイン船のサン・フェリーぺ号が台風のため土佐に漂着しました。

役人がサン・フェリーぺ号の生存者確認と荷物没収に駆けつけます。
サン・フェリーペ号の乗組員は役人に対して

「宣教師の派遣は日本を侵略するための準備行動であり、この後スペインは軍隊を派遣して日本を征服する」

                引用元:鈴木範久『日本キリスト教史 年表で読む』,教文館,2017年,p.44

と告げました。
このことが豊臣秀吉の耳に入り、伴天連追放令に基づいて宣教師とキリシタンの処刑が命じられたのです。

捕まったのはフランシスコ会宣教師7名、フランシスコ会の教会や病院に居合わせた日本人のイエズス会修道士3名、一般信者を含む24名でした。

のちに2名加わり、26名となります。

弾圧の内容

最初に捕まった24人は片耳を切り落とされ、京都市中を引き回しにされます。
そして長崎での処刑が決まると、大坂(現在の大阪)から長崎までの880キロの道のりを歩かされました。道中に2名が加わり、26人になります。

処刑された場所は長崎の西坂の丘です。
イエスが処刑されたゴルゴダの丘に似ている風景なので、信徒から選ばれたと伝えられています。

26人は約四千人の見物人が見守るなか、十字架に架けられました。26人の中には、信仰を高らかに口にしたり、聖歌を歌ったり、深い祈りを捧げたりする者もいました。

1597年2月5日、一同は槍で両脇を貫かれ、殉教しました。

処刑後、彼らの遺体は日本で最初の殉教者として世界各地に送られ、聖遺物として尊ばれました。
1862年、26人はローマ教皇ピウス9世によって聖人に加えられています。

まとめ

日本二十六聖人の殉教は豊臣秀吉の命令によって行われました。 スペインによる日本の侵略を恐れ、宣教師に対して疑いが生じたためです。

26人は京都を引き回され、長崎まで歩いて移動します。
長崎の西坂の丘で十字架に架けられた彼らは、両脇を槍で貫かれて殉教しました。

彼らは後に聖人に加えられるようになります。
江戸時代に入ると、更に大きな弾圧が江戸幕府によって行われるようになりました。

3. 島原・天草一揆|1637〜1638年

島原・天草一揆は長崎の島原と、熊本の天草の農民による農民一揆です。
過酷な年貢の取り立てと、キリスト教の弾圧に抗議し、農民が反乱を起こしました。

キリスト教の予言通りに現れた天草四郎が農民を率い、幕府軍と戦います。
幕府の思った以上に戦は長引きましたが、原城はとうとう落城し、籠城した農民は全滅しました。

では、島原・天草一揆の詳細を学んでいきましょう。

要因

島原では、収賄事件で失脚した有馬晴信から松倉勝家へと政権が変わりました。
天草では関ヶ原の戦いでキリシタン大名である小西行長から寺沢広高へと領主が交代します。

1637年、島原と天草の領地では、飢饉があったにもかかわらず、農民は過酷な年貢を取り立てられました。
また、キリシタンの取り締まりも厳しく行われ、拷問により棄教や殉教する農民が現れます。

島原と天草では農民に戻った武士を中心にどうにかしようと話し合いました。
しかし、こうした厳しい状況のなか、島原の口之津地域で年貢を納められなかった妊婦が水責めで拷問死する事件が起こります。

妊婦の拷問死をきっかけに農民は憤り、一揆が勃発。
棄教したキリシタンが再びキリシタンへと戻る「立ち帰り」が起こり、寺社への放火や、僧侶・神官の殺害が行われました。

さらに、宣教師が残した「神の子が現れて人々を救う」という予言通りに天草四郎という青年が現れます。
天草四郎は農民を率い、幕府軍と戦いました。

天草四郎とは誰か

島原・天草一揆をご存じなくても、天草四郎の名を聞いたことがある方は多いのではないでしょうか。

天草四郎はキリシタン大名である小西行長の家来、益田好次の子どもです。
本名は益田四郎といい、諱は時貞です。益田時貞とする文献もあります。

生まれながらにカリスマ性を持っており、キリシタンの間では救世主だともてはやされました。
経済的に恵まれていたため、教養もありました。
イエス・キリストのように盲目の少女の視力を戻した、海を割ったなどとさまざまな逸話が残っています。

生年月日ははっきりしていません。
島原・天草一揆の農民軍総大将となった時には、まだ15−16歳だったと伝えられています。

当時の文献によると、島原・天草一揆中には

白い絹の着物を着て、はかまを着て、頭には苧(からむし)を三つ組にしてあて、緒をつけのど下にてとめ、額には小さな十字架を立てていた。手には御幣を持って、一揆軍を指揮していた

                出所:Wikipedia,天草四郎

以上のような外見をしていたという記述があり、見てすぐにキリシタンだとわかる人物だったようです。
現在でもあまり詳細は明らかになっておらず、非常に謎めいた青年です。

幕府軍VS農民

天草四郎が率いる一揆軍は3万7千人となり、88日間にも及びました。

農民軍は廃城になっていた原城に立て篭もる「籠城」を行いました。幕府軍の兵士と聖杯と天使が描かれた旗のもとで戦い、なんとか生き延びます。

幕府は当初すぐに鎮圧できると考えていたため、戦いが長期に及ぶと焦って応援を送り、最終的には12万もの兵士が駆り出されました。

原城では女性と子どもも籠城して幕府軍と対抗しますが、幕府軍の兵糧攻めの狙い通り、食糧難に陥ります。

天草四郎は籠城して戦うことで神の赦しを得て、死後の救済につながると一揆軍を励ましました。また、ポルトガル船の助けが来ると確信していたようです。

幕府軍を指揮していた松平勝信はときおり現れる一揆軍と戦い、その死体を見分け、食糧がほとんど原城にないことを見抜きます。諸大名は手柄のために松平から抜け駆けをして原城に攻め入りました。原城はなし崩しに陥落してしまいます。

この際、城にいた者は一人残らず虐殺されました。島原と天草の農民は全滅したのです。

島原の領主である松倉はこの騒動の責任を取り、のちに斬首されました。
人がいなくなった島原と天草には移住の誘致がかかり、キリシタンではない住民が移住しました。

まとめ

島原・天草一揆は重い年貢と激しいキリシタン取り締まりから起こりました。
天草四郎というカリスマ的青年が一揆軍の大将となり、農民たちを率いて幕府と戦いました。

原城に籠城した一揆軍に幕府軍は苦戦しますが、陥落に成功します。
城にいた一揆軍は皆殺しにされ、島原と天草の農民は全滅しました。
島原と天草には、キリシタンではない農民が移住してきました。

島原と天草地方のキリシタンが全滅しても、他の地域のキリシタンは信仰をやめませんでした。島原・天草一揆以降にも、たびたびキリシタンの弾圧がありました。

4. 江戸時代と明治時代の「崩れ」

島原・天草一揆以降、鎖国の体制に入った江戸幕府は、キリスト教の迫害を強化し、日本に最後に残った宣教師も殉教しました。

キリシタンは表向きは仏教や神道を信仰し、身を潜めてキリスト教を信仰しました。
しかし、キリシタンを見つけると報奨金も出されたことから、密告などで地域ごとに役人の目が入りキリシタンが取り締められる事態が度々起こります。

これを「崩れ」と呼びます。

キリシタンは改宗を求められて拷問を受けますが、信仰を捨てずに殉教する者が多かったようです。
また、禁教から250年もの月日が経ったため、崩れが生じても注意のみで終わる場合も多々ありました。

今回はとりわけ迫害が厳しかった代表的な崩れを三つご紹介します。

郡崩れ|1657年

郡崩れは、現在の佐賀と長崎にまたがる地域で起こった崩れです。

ことの発端は、池尻理左衛門が農民の兵作から「キリストの絵を洞窟に掲げ、密かに信仰している老婆の説教に行かないか」と誘われたことです。

理左衛門は長崎の奉行所に密告し、兵作は逮捕されました。
そして郡村、萱瀬村、江串村、千綿村など広範囲で調査が行われ、608人が検挙されました。

逮捕されたほとんどが農民でした。
処罰の内訳は以下の通りになります。

斬罪 411人
保釈 99人
永牢 20人
牢死 78人

斬首刑となった者は、首が獄門所で一ヶ月間さらされたあと、胴体と首はそれぞれ500メートル離れた場所に埋葬されたそうです。
また、佐賀では吊るし殺しになった者もいました。

永牢になった者の中には10歳から13歳の幼い子供もおり、60年以上も牢の中で過ごして亡くなった例もあります。

浦上四番(よばん)崩れ|1867年

浦上地区では四度の「崩れ」が生じましたが、特に有名なのは最後に起こった浦上四番崩れです。

ことの発端は歴史編でもご紹介した1864年の「信徒発見」です。
大浦天主堂の建立と司祭の到来に勇気づけられた潜伏キリシタンたちは、次々と世間にキリスト教の信仰を明るみに出しました。

1867年、浦上地区の潜伏キリシタンたちは、仏式の葬式をはっきりと拒否しました。聞きつけた長崎奉行が浦上地区に入り、68人を捕縛しました。

長崎奉行ははじめ、潜伏キリシタンに改宗の説得を行いますが、改宗の意思が見られなかったため、流刑に処し、拷問を行います。流刑地では水責め、氷責め、飢餓拷問、子供への拷問など、薄れつつあった激しい迫害が再度行われました。

浦上四番崩れは世界中に知られ、激しく抗議されるようになります。
特に岩倉具視率いる使節団がアメリカに訪れた際、アメリカ大統領やイギリス王家の態度が非常に顕著でした。

キリスト教の禁教は、諸外国との不平等条約に拍車がかかると判断され、1873年には禁教の高札が降ろされることになりました。

浦上四番崩れは、激しい迫害があった反面、禁教を終わらせる契機となった崩れなのです。

五島崩れ|1868年

浦上四番崩れのあと、五島列島にも監視の目が入り、崩れが生じました。

五島崩れは拷問の残酷さが顕著です。
有名な拷問である「牢屋の窄」が久賀島で行われました。

「牢屋の窄」はわずか6坪の牢屋に、200人以上の潜伏キリシタンを詰め込んだ拷問です。
潜伏キリシタンは座ることも出来ず、ろくに物が食べられない中で、疲労や飢餓で亡くなりました。老人や子供など、体力がない者から命が尽き、最終的に42名が亡くなりました。

五島列島の先住民による私刑も行われました。
曾根地区では先住民が潜伏キリシタンの家財を奪い取り、畑を荒らして売り捌くなど、悲惨な状況でした。

浦上四番崩れと同様に、五島崩れも世界に知られていたため、イギリス公使による視察が入ることになると、拷問は中止されます。
ほとんどの信徒がすぐに放免となりましたが、表立ったものは牢を出るまでに数年かかったとのことです。

まとめ

潜伏キリシタンの地域に役人が入って取り締められる「崩れ」は、注意を受けるだけの内容もあれば、激しい迫害を受ける場合もありました。

厳しい迫害の場合、潜伏キリシタンは拷問を受け、神道や仏教へ改宗を迫られます。
拷問は多岐にわたり、棄教する者もいましたが、大半の潜伏キリシタンは信仰を捨てず、殉教したり永久に牢の中で過ごしたりすることを選びました。

崩れは明治時代になって、諸外国から非難の声があがったことにより、禁教の高札が降ろされ、潜伏キリシタンは晴れて信仰を公にすることができるようになったのです。

5. まとめ

日本におけるキリスト教の迫害の歴史がよくお分かりになったでしょうか。

禁教になったキリスト教は時代を経るごとに迫害が厳しくなっていきました。
豊臣秀吉の時代には晒し者にすることでこれ以上信徒を増やさないようにしていました。

江戸時代では島原・天草一揆で住民が全滅させられるほど危険な宗教だと認識されています。
たびたび崩れが生じ、潜伏キリシタンが迫害を受けました。

明治に入っても改宗を求められて拷問が行われるなど、日本の対応は変わりませんでしたが、外交の関係で禁教が解かれます。

迫害と拷問によって、キリシタンは身を隠さなければなりませんでした。
しかし、潜伏キリシタンになることによって生まれたユニークな文化もあるのです。

次回は潜伏キリシタンの独特な信仰や文化についてご紹介します。

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3. 潜伏キリシタンが受けた弾圧 迫害と拷問の歴史 | https://jp.pokke.in/story/14636

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