ガウデイ建築の世界遺産マンション!その驚きの家賃は?
芸術的な世界遺産のマンション
20世紀を代表する天才建築家アントニオ・ガウディ。
彼が手がけた奇抜なデザインの建築群を目的に今なお多くの人々がバルセロナを訪れます。
世界遺産に指定されたガウディの作品のうちでも特に評価の高い建築物が3つあります。
サグラダ・ファミリア、カサ・バトリョ、そしてカサ・ミラです。
カサ・ミラはグラシア通りに面して建つ邸宅。
地元の実業家ベレ・ミラ夫妻の依頼で建てられたこの邸宅の外観は、地中海をイメージしてデザインされたといわれ、まるでおとぎの国の家のような印象を与えます。
「カサ・ミラ」は、ミラの家という意味です。
1906年-1912年にかけてガウディが54歳の時に建設されました。
家主のミラ夫妻は「カサ・ミラ」のプリンシバルと呼ばれるフロアに住み、その他の住居は貸していたそうです。
ちなみにプリンシバルというフロアは、日本式の3階で、外側に張り出した室内テラス付き。
昔はほとんどの家主は3階に住んでいたため、古い建物では3階のバルコニーが広くゴージャスな装飾が施されていました。
さて、この「カサ・ミラ」、屋上のタイル造りの部分を除くと、全体が石で造られており、見方によっては砂丘か波のような雰囲気を持っています。
外観の波打つ曲線は地中海、ひとつひとつ異なるバルコニーの装飾は海藻を表現しているそう。
硬い石と鉄を使って、柔らかな造形を生みだすガウディのテクニックには本当に驚かされますね。
内部は天井も壁も波打ちを表現しており、まるで海底にいるかのようです。
そして屋上は独創的なデザインを加えた煙突が立ち並び、夢の中のような非現実的な光景に出くわします。
しかし、実はカサ・ミラは当時の地元の人々にはかなり評判が悪かったようです。
建物全体が剝き出しの石のように見えることから「ぺドレラ」と呼ばれていました。
ぺドレラとは、「石切り場」という意味です。
さて、ガウディがデザインをした、バルセロナの一等地に建つ芸術的な世界遺産のマンション。
マンションというだけあり、実は今でも人が住んでいます。
いったい家賃はいくらくらいだと思いますか?
100年前の建設当時に設定した1ヶ月の家賃は1500ペセタでした。
1500ペセタは当時の一般的な職人の月給の約10倍です。
これではなかなか借り手が見つかりません。
外観の評判が悪かったことも追い打ちをかけました。
そこでやむなく、「3世代に渡って値上げをしない」という契約条件を提示したことで、なんとか新たに募集を募って入居者を見つけたんだそうです。
そのためカサ・ミラの賃貸料は現在でもたったの月1200ユーロ。
日本円にして約14万円程度です。
バルセロナの一等地、300㎡以上の広さを持ち、なおかつ世界遺産指定の建物ですから、驚愕の安さです。
現在の家賃相場なら、軽く10倍以上はするだろうと言われています。
7部屋もあるカサ・ミラには現在でも4世帯が住んでいるそうです。
芸術性あふれる世界遺産の建物に住んでいるなんて、うらやましい限りですが・・・・
しかし、毎日のように観光客が波のように押し寄せてくる状態ではたしてゆっくりと過ごせているのでしょうか。
それにしても、こんな夢のようなマンション、一度は住んでみたいものです。
バルセロナ市内には、ユネスコの世界遺産指定のガウディ作品が5個所ありますが、そのうちのひとつがこの「カサ・ミラ」。
世界のどこにもない、こんなにもユニークで、しかも優雅な夢のある建造物の数々を造り上げた鬼才アントニオ・ガウディとはいったいどのような人物なのでしょうか?
アントニオ・ガウディは、1852年にスペインのカタルーニャ地方にあるタラゴナ近郊の小さな町で生まれました。
もともと祖先はフランス出身で、両親ともに銅細工職人の家系でした。
そうした幼い頃の環境が空間を彩る細工の天才が生まれた原点となったのでしょう。
幼い頃、ガウディはリュウマチを患い、他の子供たちと元気に遊ぶこともままならず、ひとりで過ごすことも多かったといいます。
この頃にひとりで風変わりな紙細工の家を作っていたという逸話が残されています。すでに6歳から才能の片鱗を見せていたのです。
彼の育った町は大都市バルセロナとは違い、周囲には自然が多く残されていました。
こよなく自然を愛するガウデイは、二人の友人と近くのタラゴナへ頻繁に遊びに出かけていたそうです。
タラゴナは、ローマ時代の遺跡や古いカトリック教会が多く残されている町。
特に「悪魔の水道橋」の異名を持つローマ時代に造られた水道橋が有名です。
また、海辺に面した場所には「地中海のバルコニー」と呼ばれる散歩道もあり、海や山などの自然に囲まれたのどかな町です。
そんなタラゴナを訪れたガウディら3人組は廃墟と化した修道院の修復を試みたそうで、その際設計を担当したのがガウディだったとも言われています。
幼少期を自然のなかで過ごしたガウディですが、16歳でバルセロナ建立建築専門学校に入学します。
決して裕福な家では無かったためアルバイトをしながらもなんとか学校を卒業しました。
卒業後は、内装や装飾の仕事を手掛け始めます。
当時バルセロナは繊維などの新興産業によって大きく発展している最中。
同時に多くのアナキスト達がスペインからの独立運動を繰り広げていました。
駆け出しのガウディは一人の人物と出会います。
資本家アウゼビ・グエル。
ガウディの良き理解者であると同時に生涯の友となる人物でした。
ある時ガウディがパリの万国博覧会に出品した手袋店のためのショーケースを見て、その抜きん出た才能を見抜いたグエルは次々と斬新な建築計画を持ちかけます。
グエルというパトロンのもと、ガウディは次々と精力的に事業を手掛け、建築家ガウディの名は周囲に高く評価されるようになりました。
グエル邸、グエル公園、コロ二ア・グエル教会など、代表的なガウディ作品にはいくつもグエルの名前がつけられています。
そして、1883年。
ガウディはサグラダ・ファミリアの主任建築家に任命され、以後亡くなるまでの40年以上もの間この教会建築に全ての情熱を注ぎこむこととなります。
建築家としての評価を得たガウディは、バルセロナとその近郊の重要な建築物の設計を手掛けます。
なかでも未完に終わっているコロ二ア・グエル教会の地下聖堂は彼の最高傑作といわれています。
この教会はバルセロナから約20キロ離れたところのコロニア・グエルにある小会堂で、グエルが労働者達のために建てた宗教施設です。
名声の絶頂へと到達したガウディでしたが、マスコミの取材を毛嫌いし、精神疾患からついには自殺までを考えるようになります。
そんな彼が支えにしていたのは、ライフワークとなったサグラダ・ファミリアの建築。
ついにはサグラダ・ファミリアへと住みついて仕事に没頭していくのでした。
1926年6月7日の夕刻、バルセロナ市内でホームレス同然のみすぼらしい恰好をした老人が路面電車にひかれて亡くなりました。
もはや身なりを一切気にかけなくなった73歳のアントニオ・ガウディでした。
病院に運ばれた際、誰も高名なガウディだとは気づかずに処置が遅れてしまい、3日後に息を引き取ったといいます。
その後、彼の遺体は、サグラダ・ファミリアへと埋葬されました。
生涯独身の身だったガウディにとって、サグラダ・ファミリアこそが安住の地なのかもしれません。
「悪魔か、天才か」
ガウディの卒業設計を見たビリャ―ル教授は、こうつぶやいたといいます。
世界中の人々を圧巻させる、素晴らしい建築物の数々を残して唐突に死んでしまったガウディ。
その最期はなんとはかないものですが、彼の残した非現実的で個性的な作品の数々は、きっと見る者にたくさんの夢を与えているに違いないでしょう。
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