レオナルド・ダ・ヴィンチが晩年を過ごしたクロ・リュセ城の歴史と見どころ
レオナルド・ダ・ヴィンチとフランソワ一世
イタリア・ルネッサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ晩年の住まい。
クロ・リュセ城はロワール渓谷の中心、アンボワーズにあります。
お城以外にも、天才的な創造の源を探るレオナルド・ダ・ヴィンチパークもあり、大人から子どもまで楽しめる美術スポットとなっています。
1516年の秋、64歳だったダ・ヴィンチはフランソワ一世の招待を受け、ロバの背に乗りアルプス山脈を越えました。
その旅には愛弟子フランチェスコ・メルツィ達と、忠実な召使であったミラノ出身のバッティスタ・ド・ヴィラニスが随行しました。
その後、1519年までの3年間、国王の手厚い庇護のもと、このお城で過ごしました。
ダ・ヴィンチは、お気に入りの3枚の絵と手帳、クロッキー帳の全てを革のかばんに入れ、ローマから運びました。
これらは、彼の多岐に渡る研究と作品を良く表している貴重な資料です。
クロ・リュセを訪れたアラゴン枢機卿の秘書が、「あるフィレンツェの貴婦人の絵画があった」と、記しています。
モナリザのことです。
この有名な絵は、1503年から1514年にかけて描かれており、彼の有名なスフマートという、ぼかし画法の技術が用いられています。
フランソワ一世は、ダ・ヴィンチに次の言葉をかけます。
「ここで考えるのも、夢想するのも、働くのもあなたの自由だ」、と。
彼は、イタリア・ルネッサンスの美に魅了されていました。
ダ・ヴィンチは、未完の絵画を描き上げる一方で、様々な技術の発明に情熱を傾け、フランソワ一世と来客のために、手の込んだ演出の祭典を企画し、大いに楽しませたそうです。
クロ・リュセ城には、ダ・ヴィンチの寝室があります。
ダ・ヴィンチは、この寝室の窓からフランソワ一世の大きな城を見るのが好きでした。
この窓からの景色のスケッチは、ウインザー・コレクションにあります。
1519年4月23日、ここで遺言を書き、愛弟子に書籍、デッサン、各種道具を遺しました。
同じ年の5月2日、フランソワ一世が、ダヴィンチの死に立ち会ったと伝えられており、数人の大画家が、それを題材にしています。
ルネッサンス時代の天蓋付きのベッドやキャビネットなど、ダ・ヴィンチがここで暮らしていた当時をしのばせる作品が並んでいます。
暖炉はフランスの紋章とサンジャックの首飾りで装飾されており、ルネッサンス仕様の寝台には、キメラ、天使などのの彫刻がなされています。
書斎机は16世紀、17世紀のもの。
椅子にはフランソワ一世の象徴である火を吐くトカゲ、サラマンダーの装飾が施されています。
ダ・ヴィンチが建築家、エンジニアとして多くのアイデアを手稿にしたためていた部屋です。
フランソワ一世のために発明した数々の機械、建築はここから生み出されました。
1517年のダ・ヴィンチのノートの多くには「アンボワーズのクルー城にて」と記されており、まさにこの場所から多くの発明が生み出されていたことが分かります。
そのノートには自筆で1517年5月の日付のメモが記されています。
「アンボワーズへ降り立った日、クルー城」。
技師であり建築家でもあるダ・ヴィンチは、フランソワ一世のために、電話装置、水路、船乗り場、自動ドアのついた城の設計をしたそうです。
又、フランソワ一世からの依頼でロモランタン城の設計を行い、ソローニュ河の水流を変える計画書を作成し、年がら年中、旅を続ける王家のために組み立て式の家屋を考えたりもしました。
この部屋には、イタリア寄木細工の家具、ホール・ヴァレリーのダ・ヴィンチに関して書かれた研究のオリジナルなどが展示されています。
城の1階へと降りると、15世紀末にシャルル八世によって造られた小さな礼拝堂があります。
この礼拝堂は、15世紀末シャルル八世王により、幼い子どもを亡くし、悲嘆にくれていた妻のアンヌ・ド・ブルターニュのために造られました。
ブルーのアーチ型の天井には王家のシンボルである百合の紋章が施されています。
入って左の壁に「受胎告知」、右に「最後の審判」、入り口の扉の上に「光明の聖女マリア」のフレスコ画がありますが、これらはダ・ヴィンチの弟子たちによるものだと思われています。
この「光の聖母」が、この城の名「クロ・リュセ」の由来ではないかと考えられています。
入って右側のガラス箱の中には、16世紀の悲しみの聖母、15世紀末の木製の受胎告知、16世紀のアイルランドのアルバートルの石の彫刻など、中世の時代の作品が並びます。
光彩の良いこれらの部屋は、ダ・ヴィンチの時代には、恐らく仕事部屋として、「洗礼者ヨハネ」の作品を描きあげた場所と思われます。
施設情報
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