潜伏キリシタンと長崎の歴史を巡る旅
2. 潜伏キリシタンの歴史Part1
潜伏キリシタン前史
「潜伏キリシタンとは何か?世界文化遺産に登録された長崎の歴史を学ぶガイダンス」では、長崎県の「潜伏キリシタン」について6つのパートに分けてご紹介します。記事を通して、潜伏キリシタンがどのような存在なのか、その劇的な歴史背景、ユニークな信仰の特徴など、潜伏キリシタンの魅力がわかります。
2つ目のパートでは「潜伏キリシタンの歴史」について。
Part1とPart2の2部構成となっています。
Part1では、キリスト教が日本に伝来してきた歴史を江戸時代まで時系列でご紹介します。
この記事を通して、キリスト教の歴史が長崎を中心に起こっていることがわかります。また、キリスト教が戦国時代にどのように日本で受容され、なぜ豊臣秀吉や徳川家康が禁教を行うようになったのか学べます。
1. キリスト教の伝来
背景
キリスト教が日本に伝来した背景に、ドイツで起こった宗教改革という重要な事件があります。
宗教改革とは、1517年にマルティン・ルターがドイツの教会に95か条の論題を提出した事件です。
この事件で当時のヨーロッパにおいてキリスト教の聖書の解釈を改める勢力「プロテスタント派」と従来の解釈を守る「カトリック派」が誕生しました。
カトリック派は当時世界で一番大きな国であるスペインとポルトガルで勢力を持っており、その布教の仕方は、武力による侵略を伴う手法でした。
対して、プロテスタント派はイギリス・オランダが勢力を持ち、布教の仕方は経済的な支配を伴っていました。
以上のことを踏まえて、日本でのキリスト教伝来を辿ると理解が深まります。
ザビエルの渡来|1549年鹿児島〜長崎
キリスト教が日本に伝来したのは、フランシスコ・ザビエルという宣教師の渡来がきっかけです。
ザビエルはイエズス会士として日本にキリスト教カトリック派を布教しにやってきました。
イエズス会はプロテスタント派に対抗してカトリック派を増やすために、キリスト教の未開の地で布教しようと結成されたカトリック派組織です。
ザビエルは布教でインドに渡った際に、日本人アンジロウと出会い、彼の案内で鹿児島にやってきました。
当初は鹿児島で布教を行うも仏教と混合されたり、仏教と違う宗教だとわかると迫害を受けたりと、芳しくありませんでした。
一年後には長崎県の平戸と山口県に移動して布教を行います。
ザビエルは当時の都である京都で布教したいと考えましたが、受け入れてはもらえませんでした。
その後、日本文化が中国に由来することを知り、中国を目指しますが急病により亡くなります。
慈善活動と教育活動|1557年大分、長崎、滋賀
宣教師やその教徒による日本での慈善活動は乳児院と病院の設立が挙げられます。
貿易商人として日本を訪れていたアルメイダは、大分で洗礼を受け、1556年にイエズス会に入会します。アルメイダは経済的に苦しんでいた宣教師を支えるようになります。
アルメイダは当時の大分の貧困の様子を目の当たりにし、乳児院と病院を設立しました。
当時の日本は戦国時代という不安定な政治状況でした。何かあっても助け合うのは地域や血縁関係というのが当たり前でしたが、分け隔てなく助け合ったイエズス会の活動から、信徒の数は急速に増加しました。
また、各地を回って宣教師を指導していたヴァリニャーノは、教育機関として長崎の有馬と滋賀の安土に、セミナリヨとコレジヨという学校開設を行いました。イエズス会の修道士を養成するための機関です。この学校ではラテン語と日本語の古典を学び、音楽や体育なども学べました。
ヴァリニャーノは天正少年使節団を結成し、セミナリヨから選ばれた4人の少年をスペイン・ポルトガルへ派遣し勉強もさせています。
都での開教|1559年京都
当時の日本の都である京都での布教は伝来から15年後に果たされます。
都で開教するというザビエルの使命を引き継いだのは、フロイスとヴィエラとロレンソの三人の宣教師です。
彼らは仏教と神道から迫害を受けながらも、都を目指して奔走し、とうとう足利義輝に相見えます。そこでキリスト教の伝道に対して三つ制札を賜り、保護を受けることになりました。
織田信長の庇護|1569年京都、長崎
足利義輝が松永久秀に政権が渡ると、いったん宣教師たちは京都から追い出されてしまいますが、
1569年、織田信長の政権になると、再び京都に戻ることができました。織田はキリスト教を奨励していたからです。
宣教師たちの後ろ盾にはポルトガル船がいました。
織田やその他の大名たちは、キリスト教を奨励し改宗を認める代わりに、ポルトガル船に軍事的援助を望んでいたのです。
ポルトガル船を後ろ盾にする宣教師側にも、もちろん相応の目的がありました。
宣教師の目的
宣教師はキリスト教の布教という目的のみで各地を訪れたわけではありません。背景でも述べたように、カトリック派の布教は武力による侵略も伴います。
そのため、宣教師は布教先で植民地化の偵察も行っていました。
ザビエルはイエズス会への書簡にこう記述しています。
「スペインの皇帝カルロス一世かカスティリャ国王にメキシコを経由して銀の島を探検する艦隊をこれ以上派遣しないように警告してもらいたいからです。どんなにたくさん行っても、すべて難破してしまいます。たとえ海中で難破しないで日本の島に着いたとしても、日本人はたいへん好戦的で強欲ですから、メキシコからたくさん船が来ても、すべて捕獲してしまうでしょう」
引用元:河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡4』,1994年,p.74
ザビエルはこうした偵察の結果をイエズス会を通して伝えています。
1563年には長崎の大名である大村純忠が洗礼を受けてキリシタンとなります。同年、長崎の横瀬浦をイエズス会に譲渡し、港にポルトガル船が入ります。
1570年には長崎の平戸も譲渡し、船が入るようになりました。
キリスト教の布教と侵略の土台作りは着々と進んでいきます。
こうしてキリシタンは日本に順調に広まっていきました。しかし、その後キリスト教は日本で信仰してはならない禁教となってしまいます。
2. 豊臣秀吉の禁教
豊臣秀吉が政権を持った時代では、伴天連追放令が発布され、キリスト教を追い出す流れが生まれました。
その背景には豊臣秀吉にとって禁止するにやむを得ない事情と同時に、軍事的な利益から貿易自体は止められないという考えがあります。
時系列で詳しく学んでいきましょう。
伴天連追放令|1587年全国
織田を討った明智光秀を倒し、政権を握った豊臣秀吉は、当初はキリスト教に対して好意的でした。
ところが、秀吉は掌を返したように1587年に「伴天連追放令」を全国に発令します。伴天連とは、カトリックの司祭を表す「パァドレ」に当て字をしたキリスト教やその信徒の呼び名です。
伴天連追放令は、宣教師に20日以内の国外退去を求める内容でした。
秀吉はなぜこのような追放令を出したのでしょうか。
秀吉が伴天連追放令を出した理由
秀吉は伴天連追放令を出す直前に、キリシタン大名を通して以下の4つの詰問状を宣教師のガスパル・コエリュに送っています。
この詰問状で当時起こった事実と、秀吉の考えがよく理解できます。
「一つ、なぜかくも熱心に日本の人々をキリシタンにしようとするのか。
出所:東洋経済オンライン, 「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断
一つ、なぜ神社仏閣を破壊し、坊主を迫害し、彼らと融和しようとしないのか。
一つ、牛馬は人間にとって有益な動物であるにもかかわらず、なぜこれを食べようとするのか。
一つ、なぜポルトガル人は多数の日本人を買い、奴隷として国外へ連れて行くようなことをするのか」
❶神社仏閣の破壊があったから
宣教師たちは日本に伝わる神々や仏を「悪魔」と呼び、キリシタンに破壊するように求めていました。
「悪魔は何年も前から、この恐ろしくぞっとするような場所を、おのれを礼拝させるための格好の場として占有していた」
引用元:三浦小太郎『なぜ秀吉はバテレンを追放したのか』,ハート出版,2019年,p.166
フロイスは自著『日本史』で長崎の洞窟にある仏像についてこう記述しています。
また、セミナリオに通う学生が神社やお寺に火をつけた事実も明らかになっています。
詰問状の返事として、コエリュは信仰を強制したこともないし、破壊行動も宣教師から推進したのではなく、キリシタンが自発的に破棄したのだと答えています。
こうしたキリシタンによる神道、仏教に対する破壊行動が秀吉にとっては脅威に感じられました。
❷奴隷貿易を行っていたから
九州の大名が次々とキリシタンになると、スペインやポルトガルと日本人の奴隷貿易を行うようになりました。
秀吉はこの事実を把握し、売られた日本人奴隷の買取も申し込みます。
秀吉の要望通りに買い戻しはなく、宣教師コエリュも「大名たちが売ることが悪い、まずは日本人から止めてほしい」と返事をしています。
それでも、この追放令では貿易船に触れられておりません。秀吉は貿易を続ける意思があったようです。
日本二十六聖人の殉教|1597年長崎
伴天連追放令の発令から10年後の1597年、日本で26人の宣教師が処刑されました。
この頃になると、イエズス会だけでなく、スペインのフランシスコ会というカトリック派キリスト教の別の組織も日本に参入していました。
マニラからメキシコへと向かうスペイン船サン・フェリーぺが土佐沖に漂着した際、サン・フェリーぺ船の荷物を没収しにきた役人に対し、船員の一人が
「宣教師の派遣は日本を侵略するための準備行動であり、この後スペインは軍隊を派遣して日本を征服する」
引用元:鈴木範久『日本キリスト教史 年表で読む』,教文館,2017年,p.44
と言ったそうです。この事件はサン・フェリーペ事件と呼ばれています。
役人の報告を聞いた秀吉は、フランシスコ会の宣教師を中心に、キリシタン26人を逮捕、1597年に長崎で処刑します。処刑された中にはイエズス会の宣教師も4人含まれていました。
秀吉はこの「日本二十六聖人の殉教」の一年後に息を引き取ります。
3. 徳川家の禁教
秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利し政権を握った徳川家もまた、キリスト教を禁教にしました。
家康は伴天連追放文を発令し、鎖国の体制を作りました。二代目の秀忠、家光もキリスト教迫害に動き、1644年にはキリスト教司祭が日本からいなくなってしまいます。
徳川家の禁教の歴史を詳しく見ていきましょう。
伴天連追放文|1614年全国へ発令
当初、徳川家康はキリスト教に好意的でした。
この頃になると、イエズス会、フランシスコ会以外に、ドミニコ会、アウグスチノ会も来日し、家康も全員と顔を合わせた上で布教を認めています。
しかし、長崎のキリシタンである大名の有馬晴信と、同じくキリシタンの役人である岡本大八との間に贈賄や奉行殺害計画などが発覚したことから、家康は二人を処刑し1614年に「伴天連追放文」を発表しました。
この追放文にはキリシタンは神仏を惑わす敵であり、国を害するものだと記されています。
家康の死後、江戸幕府は1616年に「伴天連宗門御制禁奉書」を出し、外国船の出入りを長崎と平戸だけにして、鎖国の体制に入りました。
絵踏|1629年長崎
江戸幕府による厳しいキリシタンの取り締まりの一環として、1629年には「絵踏」が始まりました。
絵踏とは、キリストや聖母が彫られた板などを踏ませる行為です。この板を「踏み絵」と呼びます。踏まなかった者はキリシタンとして逮捕、処罰されました。
主に正月に行われたので、長崎では絵踏が正月行事として認識されていました。
初期の段階では効果がありましたが、形骸化が進み「絵踏をしても実際はキリスト教を信仰していればよい」とキリシタンが考えるようになったため、あまり効果がでなくなっていったようです。
島原・天草一揆|1637年長崎・熊本
島原・天草一揆は1637年に起こった幕府と農民の内乱です。
島原の乱は、重い年貢に耐えかねた農民と、弾圧に対抗するキリシタンが起こした一揆です。当時島原を治めていた松倉重政は、島原城の建設やフィリピンのルソン島に派遣を行う費用として、住民から過剰に年貢を取り立てていました。
また、松倉はキリシタン弾圧も行いました。キリスト教から仏教、神道に改宗しなかった者、年貢を納められない農民などを捉えて拷問・処刑を行いました。
天草は元々キリシタン大名である小西行長から、関ヶ原の戦い後に寺沢広高へと大名が変わり、島原と同じように重い年貢とキリシタン弾圧が行われるようになります。
島原・天草のキリシタンの間でカリスマ的人気となっていた天草四郎が農民側の軍の総大将となり、原城で立て篭もって対抗しますが、幕府は原城を攻め入り、農民を制圧しました。
この一揆は宗教だけではなく、農民一揆の性質も見受けられますが、幕府はキリスト教の弾圧のために宗教的側面を強調しました。
島原・天草一揆により、幕府がポルトガル船の来航を禁止し、イギリス・オランダのみと貿易を行います。加えて外国人を長崎の出島に移住させ、日本の鎖国体制が完成しました。
小西マンショの殉教|1644年長崎〜飛騨
1644年には、小西マンショというカトリック司祭が殉教しました。
小西マンショは日本人のカトリック司祭です。キリシタン大名である小西行長の息子として長崎で誕生し、有馬のセミナリオでキリスト教を学びました。
マンショは伴天連追放令でマカオに追放されたのち、ポルトガルに赴いてコインブラ大学で学び、ローマでイエズス会に入会、聖アンドレ修練院で神学と人文学を学びました。
1627年には司祭の位を授かりました。
1632年に日本に帰国し布教活動を行いますが、1644年に捕縛され、飛騨の音羽で処刑されてしまいます。
日本でたった一人になってしまったカトリック司祭が処刑されたことで、日本にはキリスト教を指導する者がいなくなってしまいました。
残されたキリシタンは幕府からの目を盗み、自己流でのキリスト教信仰を続けました。
4. まとめ
いかがでしょうか。
日本でのキリスト教の歴史を概観すると、場所は九州、とくに長崎が中心になっていることがよくわかります。
当初は順調だったキリスト教の伝来は、時を経るにつれて厳しく取り締まられるようになりました。
キリスト教の伝来はイエズス会士であるフランシスコ・ザビエルが来日したことがきっかけになります。日本にはカトリック派キリスト教が最初に伝来しました。
イエズス会の後ろにあるスペイン・ポルトガルの意向で、布教と侵略の偵察を行っていた宣教師たちは、貿易船を武器にして、着々と土台を作ります。
しかし、キリシタンによる神社仏閣の破壊や奴隷売買を理由に、豊臣秀吉が伴天連追放令で対策を行います。
徳川家の代になると、キリシタン大名による収賄事件が起こり、貿易に制限をかけるなど鎖国体制を始めました。
島原・天草一揆を沈静させたのち、江戸幕府は鎖国を完成させました。
司祭の小西マンショが1644年に殉教したことで、日本でキリスト教を指導する者がいなくなってしまいました。
こうした歴史から、長崎を中心に存在する潜伏キリシタンが生まれました。
次回は「潜伏キリシタンの歴史Part2 潜伏キリシタンの発見」でその後のキリシタンの歴史を見ていきましょう。
共有
https://jp.pokke.in/story/14600