Pokkeインタビュー #008
刺繍を通して、多様な文化に触れる 企画展の見どころを解説 静岡県立美術館 『糸で描く物語 刺繍と、絵と、ファッションと。』 特別インタビュー
静岡県静岡市にある、静岡県立美術館では、2023年7月25日(火)~9月18日(月・祝日)まで、企画展「糸で描く物語 刺繍と、絵と、ファッションと。」が開催されています。
画像提供:静岡県立美術館
手仕事の温もりと美しさによって、幅広い層に人気のある刺繍。本展では、伝統的な装飾品から日用雑貨に至るまでさまざまな形で現代の生活に浸透している刺繍を、複数の角度から紹介しています。 Pokkeインタビューでは、静岡県立美術館の学芸員・貴家映子(さすが・えいこ)氏に、企画展「糸で描く物語 刺繍と、絵と、ファッションと。」の見どころを解説していただきました。
ゲストプロフィール
日本平のふもと、緑に囲まれた「静岡県立美術館」
──「静岡県立美術館」についてご紹介をお願いします。
静岡県立美術館は、静岡県議会100年記念事業の一環として設立され、1986年4月に開館しました。「開かれた美術館」を目指し、企画展や収蔵品展、講演会、講座、シンポジウムなどを開催しています。
「静岡県立美術館」外観 画像提供:静岡県立美術館
所蔵品としては、日本と西洋の17世紀以降の風景画を主に取り扱っています。また、県立の美術館なので、県にゆかりのある作家の方や現代美術の収集も行っています。 1994年3月には、新館として「ロダン館」がオープンしました。ロダン館では、明るい大空間を散策しながら、ロダンの《地獄の門》を中心とする彫刻の数々を鑑賞できます。
「ロダン館」内観 画像提供:静岡県立美術館
風景の美術館ということで、絵画のコレクションではあまり収集していない「人体表現」というものを見ていただけるような場所になっていると思います。 また、緑あふれる自然環境に囲まれていることも当館の特徴の一つです。美術館へと向かう歩道「彫刻プロムナード」には、国内外の彫刻家による作品が12点設置されており、自然と一体になって来館者を迎えてくれます。
伝統的な装飾品から日用雑貨まで。 糸で描く、多種多様な刺繍の世界を表現
──「静岡県立美術館」のご紹介ありがとうございました。現在、企画展「糸で描く物語 刺繍と、絵と、ファッションと。」が開催中ですね。本展はどのような内容でしょうか。
「糸で描く物語 刺繍と、絵と、ファッションと。」では、タイトルにもあるように、「刺繍」をテーマにした企画展です。 一針一針を縫い進めて様々なものを表現する刺繍は、伝統的な装飾品から身近な雑貨まで、時代と地域を超えて発展してきた表現技法です。刺繍をテーマにした展示というと、美術館では、現代アートにフォーカスしたものが多く開催されているように思います。 本展は、現代アートとしての刺繍だけでなく、民族衣装や壁掛け、オートクチュールなど、アートや工芸、民芸品の垣根を超えて、今も多くの人に愛される様々な刺繍の魅力を約230点の出品作品を通じて紹介しています。
──本展の見どころはどんなところにあると思いますか。
刺繍そのものの表現の面白さや力強さを感じられる、深みのあるところが見どころだと思います。 本展の担当としては、刺繍の細かい技術を見ていただくとともに、刺繍を通じて、さまざまな国の文化に触れるきっかけになってほしいと思っています。 時期もちょうど夏休み中なので、子どもたちにも来館してもらって、刺繍の面白さや楽しさ、文化の違いなどを感じてもらえたら嬉しいです。
第1章「刺繍と民俗衣装」
──ありがとうございます。それでは、各章のご説明をお願いできればと思います。まずは、第1章「刺繍と民俗衣装」はどのような内容なのでしょうか。
第1章「刺繍と民俗衣装」では、中・東欧地方の民俗衣装を中心に、大きく分けて、ルーマニア中部トランシルヴァニアの刺繍とスロヴァキアの民俗衣装を紹介しています。 トランシルヴァニアという地域は、長い間、ハンガリー王国が統治していた歴史があります。その影響で、ハンガリー人はもちろんのこと、ドイツ系の民族が入植していたりします。同じ地域の中に異なる民族の村があるという、多元的な場所です。 そうした背景から、作品としても、ルーマニア人が制作したものもありながら、ハンガリー系のものもあるので、作品を見比べると面白いかと思います。
《カロタセグ地方ハンガリー人ブラウス》(部分)、谷崎聖子、シェレシュ・バーリント蔵
《カロタセグ地方ハンガリー人麻製タペストリー》谷崎聖子、シェレシュ・バーリント蔵
もう一つの見どころとしては、ハンガリー系の人々が手掛けている、太い線で布地を埋めた「イーラーショシュ」と呼ばれる刺繍です。 これは、ウールの糸で、ほとんどが黒か赤の単色の刺繍です。見た目はゴツゴツしているのですが、薄手の綿の布に刺繍が施されていて、刺繍部分と地の布のコントラストが美しいです。
《カロタセグ地方ハンガリー人スカーフ》(部分) 20世紀半ば 谷崎聖子、シェレシュ・バーリント蔵
──スロヴァキアの民族衣装には、どのような特徴があるのでしょうか。
スロヴァキアの民族衣装は、華やかさと技巧性に富んだ刺繍を特徴としています。伝統的に手工芸が盛んだったスロヴァキアでは、1960年~1980年代にかけて意欲的な指導者が古い文様を復活させたりするなど、質の高いデザインを生んできたという背景があります。 今回は、現在もその保存や発展に務めている、スロヴァキア民俗芸術制作センターに協力していただいています。各地方の特徴ある民族衣装や各地方で作られた模様を生かした、現代のインテリア用のテキスタイルも合わせて展示しているので、展示を通してスロヴァキアの面白さを感じていただきたいです。
《スロヴァキア北西部トレンチン地方エプロン》 スロヴァキア民俗芸術制作センター蔵
また第1章のみにはなるのですが、SNSでの発信も可としているので、来館された方にはぜひ写真を撮っていただき、たくさん発信してもらえたらと思います。
第2章「イヌイットの壁掛け」
──第1章「刺繍と民俗衣装」のご説明ありがとうございました。続きまして、第2章は「イヌイットの壁掛け」ということですが、そもそもイヌイットとはどんな民族なのですか。
カナダの先住民族であるイヌイットは、伝統的に狩猟生活を行っていました。何世紀にもわたり、基本的には一か所に定住せず、移動しながら生活をしてきたという民族になります。 イヌイットがカナダで暮らす中、イギリスが入植してきたことで、その生活が少しずつ変わり始めます。19世紀後半辺りから、狩猟で得た動物の毛皮などをヨーロッパに輸出して、その代わりに紅茶や火薬、嗜好品を手に入れるようになりました。 毛皮を売るということが可能だったときは良いのですが、毛皮の貿易が低迷し、だんだんと伝統的な狩猟生活を維持することが難しくなっていきます。 20世紀半ば頃から、狩猟生活から定住生活へと切り替わっていき、経済的に自立していくためにも、創作活動が始まったという経緯があります。
──なるほど。では、第2章で展示されている「壁掛け」などは、そうしたイヌイットたちの生活の変化から生まれた作品ということでしょうか。
そうですね。経済的自立のための芸術活動という点においては、芸術家のジェームズ・ヒューストンという方の存在がとても大きいです。極北の暮らしに憧れて、イヌイットの地にやってきたヒューストンは、彼らが作った彫刻に目を奪われます。 その出会いから、ヒューストンの情熱によって、イヌイットは、アートという新しい生業を得ることができました。その結果、作品を通じてイヌイットたちの存在が世の中へと発信されていきます。 壁掛けは、元来、女性たちが担ってきた衣服を作る技術を、他にも活かせないかと模索する中で生まれたものです。
サラ・イヌクプク《ダッフル製壁掛け〈お魚の話をするイヌイット〉》 北海道立北方民族博物館蔵
──衣服や壁掛けなどの作品には、どんな刺繍が施されているのでしょうか。
狩猟生活や神話を始めとする独自の伝承など、イヌイット固有の文化に根ざしたイメージが表現されています。 色鮮やかな大胆な色彩とユーモラスな造形は、純粋に見る人を楽しませてくれると思います。作り手であるイヌイットたちの自由な表現が見られると同時に、狩猟生活から始まった彼らの世界観を語り継いでいる、重要な作品と言えます。
アイリーン・アヴァーラーキアク・ティクタラーク ダッフル製壁掛け 〈赤いダッフルの上の三つの精〉 北海道立北方民族博物館蔵
本展は、全6室で展示しているのですが、第2章で2部屋分を使用しています。大きな作品から、皆さんのご自宅でも飾れそうな小さなものまで、たくさん揃っていますので、ぜひご覧いただければと思います。
《ダッフル製壁掛け〈夏の生活、冬の生活〉》北海道立北方民族博物館蔵
──ありがとうございます。2021年に横須賀美術館、2023年5月~7月の間は、新潟県立万代島美術館、そして今回、静岡県立美術館での巡回とのことですが、貴館では、イヌイットの人形が追加出品されていると伺いました。
そうですね。イヌイットたちの創作は、衣服を作るというところから発展しています。 実際に衣服を着た人形を展示することで、彼らの縫製技術をより分かりやすく伝えられるのではないかと思い、伝統的な衣服を着た、男性と女性の人形を展示することにしました。
第3章「刺繍と絵」
──第2章「イヌイットの壁掛け」のご説明ありがとうございました。第3章「刺繍と絵」はどんな内容なのでしょうか。
第3章「刺繍と絵」では、多数の近現代アーティストたちによる、さまざまな糸の表現を鑑賞していただける章となっています。 第1章と第2章で紹介した作品は、民族衣装やイヌイットの創作活動といったように、ある意味、生活する上でその必要性を感じたことから生まれてきたものだと思います。第3章は、純粋な表現の多様性を感じていただければと思っています。 なかでも、伝統的な刺繍を活かしながら、自らの表現に落とし込んでいる作家たちの作品が、見どころの一つになっています。
伝統を生かしながら、自らの世界観を表現する 近現代のアーティストたち
大塚あや子氏
まずは、大塚あや子(おおつか・あやこ)さんをご紹介します。大塚さんは、主にヨーロッパの伝統的な刺繍を学ばれた、現代の本格的な刺繍家です。 絵本画家・童画家の草分け的な存在である、武井武雄さんの図案集をもとに制作された作品をご覧いただけます。武井さんの自由闊達な線画を、巧みに刺繍へと置き換えている、大塚さんの創意と技術力はとても素晴らしいものです。
大塚あや子(刺繍)/武井武雄(図案)《『武井武雄手藝図案集』刺繍》イルフ童画館蔵
樹田紅陽氏
次に紹介するのは、樹田紅陽(きだ・こうよう)さんです。京都府で長年刺繍業を営む、京繍の初世・紅陽(樹田国太郎氏)の孫として生まれ、1987年に三世・紅陽を襲名した方です。 伝統的な日本の刺繍ですが、緻密な色彩構成を特徴とする独自の作品を作られています。また、文化財の復元にも積極的に取り組んでいる方です。
樹田紅陽《Six Cubes》作家蔵
貝戸哲弥氏
次に紹介するのは、貝戸哲弥(かいど・てつや)さんです。貝戸さんは、第1章でも紹介した、ルーマニアのイーラーショシュ刺繍を現地で学び、独特な絵本の挿絵を生み出している作家です。
貝戸哲弥『黒けだもの』刺繍衣装(2018年)、刺繍トートバッグ(2019年) 展示風景
小林モー子氏
次に紹介するのは、小林モー子(こばやし・もーこ)さんです。小林さんは、フランスの刺繍学校「エコール・ルサージュ」で、さまざまなテクニックを学び、ビーズを使った刺繍を中心に、イラストレーションやアクセサリー制作などの仕事をしています。 フランスでの学びを活かし、その特徴ある技術を日本で販売できるような形のアクセサリーとして落とし込んで表現されています。 小林さんの作品からは、現代的な美意識と手仕事の融合を見ることができます。
エヴァ・ブラーズドヴァー氏
エヴァ・ブラーズドヴァーさんは、1950年代、チェコの共産主義体制という厳しい時代を生きた作家です。厳しい世界を生きる中で、気持ちも落ち込んでいたそうです。 そんなとき、彼の息子で、20世紀のチェコを代表するアーティスト、パヴェル・ブラーズダに勧められて、息子の原案による不思議な刺繍を手掛けました。刺繍は、生きる活力になったそうです。
エヴァ・ブラーズドヴァー(刺繍)パヴェル・ブラーズダ(原案)《城》 個人蔵
エヴァ・ヴォルフォヴァー氏
エヴァ・ヴォルフォヴァーさんは、同じくチェコの作家です。刺繍による絵本で、チェコの著名なコンクールや文学賞に選ばれています。 作品からは、手作業の痕跡を強く感じさせる素朴さが感じられます。また、キッチンクロスや端切れなど身近な材料で作品を作られています。
エヴァ・ヴォルフォヴァー《『コーヒーの泡から生まれたこねこ』絵本原画》作家蔵
即興性や心和むストーリーに癒されます。
──刺繍という表現の幅の広さとアーティストそれぞれの世界観が刺繍を通して表現されていると思いました。
そうですね。刺繍は伝統的なものですが、現代において刺繍がそれぞれのアーティストたちによって発展した姿が第3章では見られると思います。
第4章「刺繍とファッション」
──第3章「刺繍と絵」のご説明ありがとうございました。最終章となる、第4章「刺繍とファッション」はどんな内容なのでしょうか。
最後の「刺繍とファッション」は、フランスのオートクチュールを彩る華やかな刺繍の世界を紹介しています。パリには、ディオールをはじめとする高級メゾンの発注に応える、専門の刺繍工房があります。注文に応じて、ビーズやスパンコール、羽根などさまざまな素材を使用し、その世界観を表現しています。
《イブニング・ドレス〈ジェーン・バーキン〉》メゾン・ヴェルモン蔵
多種多様な刺繍の技術の中で、「クロッシェ・ド・リュネビュル」という独特な刺繍技法があります。この技法は、特殊なかぎ針によってビーズを縫い留め、緻密な図案を生み出すものです。 第4章では、この刺繍技法によって生み出されたオートクチュール刺繍の華やかな世界をご覧いただけます。
メゾン・ヴェルモン《刺繍見本〈タロットカード13「死神」〉》メゾン・ヴェルモン蔵
──ありがとうございます。刺繍といえども、第1章で紹介された民族衣装とは、全く異なるイメージを持ちました。
そうですね。さまざまな素材をミックスして、一つの世界観を表現しているので、本当に絵のようなんです。 民族衣装で使われる素材は、基本的には村で手に入るものなので、限られています。 一方で、オートクチュールは、一つのものを作るために、あらゆる素材を使用するので、その豊かさを感じていただけると思います。 同じ展覧会の中で、刺繍の対比のようなところも感じられて面白いですね。
自由であたたかい、刺繍の世界を楽しんでほしい
──第1章から第4章までのご説明、ありがとうございました。最後に、本展に来館される方へメッセージをお願いします。
刺繍は、一針一針縫い込んでいくという手作業を経て完成します。目を見張るような技術に加えて、モノとしての存在感もあり、思わず手に取ってみたいと思わせてしまう力が刺繍にはあると思います。 当館は普段、彫刻や絵画を中心に扱っている美術館なので、そうしたいわゆる「芸術」と比べると、刺繍は親しみ深くあたたかい印象を与えてくれると思います。 また、夏休みの子どもたちには、刺繍を通した異文化体験をしてほしいと思っていて、ワークショップなども企画しています。 純粋に刺繍をする方や刺繍が好きな方はもちろん、海外旅行が好きな方などにも楽しんでいただけると思います。展示を通してちょっとした旅行気分を味わっていただきたいです。
──貴家さん、お忙しいところインタビューを受けていただき、ありがとうございました! 静岡県立美術館では、9月18日(月・祝日)まで企画展「糸で描く物語 刺繍と、絵とファッションと。」を開催中。伝統的な装飾品からオートクチュールまで、さまざまな刺繍の世界をぜひお楽しみください。 静岡県立美術館の詳細については、以下をご覧ください。
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会期:2023年7月25日(火)~9月18日(月・祝日)
会場:静岡県立美術館
所在地:静岡県静岡市駿河区谷田53-2
アクセス:【電車】JR東海道線・草薙駅県大・美術館口から徒歩約25分、静岡鉄道・県立美術館前駅南口から徒歩15分【バス】「県立美術館」バス停下車
開館時間:【通常】10:00~17:30(展示室への入室は17:00まで)
【夜間開館(不定期開催)】2023年8月11日(金)、12日(土)10:00~19:00(展示室への入室は18:30まで)
休館日:月曜日(月曜日が祝日・振替休日の場合は開館、翌日休館)、年末年始、その他展示替等のための休館日(臨時休館はWebサイトで随時お知らせ)
入館料:【収蔵品展(ロダン館も鑑賞可)】大人 300円(団体200円)、年間パスポート 500円、大学生以下・70歳以上 無料
【企画展(収蔵品展・ロダン館も鑑賞可)】企画展ごとに異なる。詳細はこちら
電話番号:054-263-5755
HP:https://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/
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