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世阿弥と能について知ろう

【PART.2】能の創始者 世阿弥の生涯



世阿弥と能について知ろう」シリーズでは、能という舞台芸術の創始者である世阿弥に焦点を当て、世阿弥の著作の中から現代でも生かせる言葉や、世阿弥の生涯、能の歴史、能の鑑賞、世阿弥と能に関する本についてご紹介します。

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この記事では、世阿弥の生涯についてご紹介します。 世阿弥が幼くして将軍に寵愛され、観阿弥を含めて猿楽の庇護を受けたことや、老年期にかけて厳しい環境にいたことがわかります。

1. 世阿弥の生涯は波乱万丈

今回の記事では、世阿弥の生涯についてご案内します。

世阿弥は技能書を書いただけでなく、能を作り、演者としても活躍しました。 現代にも通じる著作を書いた世阿弥は、波乱万丈の人生を送っています。

世阿弥の歩んだ人生を振り返り、世阿弥の言葉が生まれた所以を探ってみましょう。

2. 少年期の世阿弥は足利義満に見初められる


世阿弥は室町時代、1363年ごろに生まれました。

本名は世阿弥元清(ぜあみもときよ)です。 大和猿楽四座と呼ばれる有名な猿楽の一座の一つである結崎座(ゆうざきざ)を率いた観阿弥の子として生まれます。

世阿弥は鬼夜叉という幼名で東大寺尊勝院の稚児として仕えます。 一方で容姿端麗なこともあり、父の営む結崎座にも演者として出演していました。

京都にある新熊野寺(いまくまのでら)で猿楽を演じていた際、世阿弥は主役級の役を任されることになります。

室町幕府三代目将軍・足利義満が世阿弥の猿楽を鑑賞し、結崎座が見初められるきっかけとなります。 世阿弥が12歳の時の出来事です。

2-1. 父・観阿弥の生涯

ここで、世阿弥の父・観阿弥について簡単にご紹介します。

観阿弥が世阿弥に与えた影響は非常に大きく、観阿弥なしに世阿弥を語ることは難しいからです。

観阿弥は1333年、伊賀国(現在の三重県西部)で生まれました。 本名は「観阿弥清次(かんあみきよつぐ)」です。

猿楽を営む一家に生まれ、父母兄弟はみな猿楽の演者でした。

芸能を重んじる神社仏閣の多い大和国(現在の奈良県)に拠点を移した観阿弥は、結崎座を率いて、大和猿楽四座とよばれるまでになりました。 結崎座が現在の能を演じる観世流へと繋がります。

さらに京都へと進出し、醍醐寺で猿楽の公演を行ったところ、いたく評判をよび、時の将軍足利義満が鑑賞に来て寵愛を受けるようになります。

一方で農民への公演も忘れず行った観阿弥でした。 1384年、駿河浅間神社(現在の静岡浅間神社)での公演直後に52歳で亡くなります。

3. 青年期の世阿弥は教養を高め、夢幻能を創作

世阿弥は足利義満の恩寵を受け、父の観阿弥とともに城に出入りするようになります。

城での公家、武家との交流を通して、世阿弥は教養を高めていきます。

将軍や公家、武家にたしなまれた猿楽ですが、演者は必ずしも教養があったわけではなかったため、この経験が着実に世阿弥の糧となりました。

特に世阿弥を可愛がった人物は、天皇の関白・摂政をしていた二条良基。 世阿弥は二条良基から連歌を習い、藤若という名を授けられて以降は藤若と名乗るようになります。

世阿弥は夢幻能という死者の見せる夢があの世とこの世の境界を侵犯し、交わっていく形式の能を作ります。 夢幻能は当時の公家、武家の好みに合わせて制作されました。

21歳になった1384年、父の観阿弥が駿河浅間神社で亡くなります。 世阿弥は観世大夫の名前を貰い、正式に観阿弥の後を継ぐことになりました。

足利義満の寵愛は長くは続きませんでした。 近江猿楽の一人者である道阿弥(または犬王)に足利義満の興味が移り、寵愛が注がれるようになります。

道阿弥の猿楽の素晴らしさは世阿弥も理解していたため、世阿弥は後継者育成に取り掛かるようになります。

4. 老年になった世阿弥は不遇の時代へ


1422年、60歳になった世阿弥は観世流を息子の元雅に継がせて出家。

故郷である奈良に戻り、補巖寺という寺で余生を過ごす予定でした。

室町幕府内では、足利義満がこの世を去り、その後、義持、義量も政権を握りますが長くは続きませんでした。 6代目将軍として足利義教が政権を握ります。

足利義教が寵愛したのは世阿弥の弟の子である元重(音阿弥)です。 元重は元々子供のできなかった世阿弥の猿楽の後継として考えられていました。

しかし、実子である元雅が生まれたことにより、元雅へ観世流が受け継がれます。 観世流は元重派と元雅派に分かれるようになりました。

そして義教の寵愛により、元雅派は次第に幕府内での肩身が狭くなっていきました。

「世阿弥がもっていた、醍醐寺の清滝宮の楽頭職が元重にうばわれてしまう。二月の薪猿楽も、前年は元雅がつとめていたが、永享二年からは元重がとってかわることになる。どちらも義教のさしがねだろう」

出典:松岡心平『物語の舞台を歩く 能 大和の世界』山川出版社、2011年、p.183

世阿弥にとっての不幸が続きます。

1432年、猿楽の巡業先で元雅が命を落としてしまいます。 後継者がいなくなった世阿弥に、さらに佐渡島への流刑が決定します。

流刑というと、当時はかなりの重罪ですが、なぜ世阿弥が流刑になったのかは明らかになっていません。

1434年、72歳で佐渡へ流された世阿弥は、能への情熱を絶やすことはありませんでした。 佐渡の様子を綴った『金島書』を記したり、能楽堂を建てたりと、佐渡での能の普及に携わりました。

その後、世阿弥は京都に戻れた説と、佐渡で生涯を閉じた説とに分かれていますが、詳しいことはわかっていません。

5. 世阿弥が残した言葉は経験に基づくものばかりだとわかる

世阿弥の生涯は誰が見ても波乱万丈です。

幼い頃の世阿弥は将軍から寵愛を受けたにもかかわらず、老年期には息子が亡くなったり、佐渡に流されたりと、不遇の時代を過ごします。

特に世阿弥が唱えた「男時・女時」は人生観が色濃く反映されているように感じます。

いい流れと何をしてもよくならない流れを感じ取っていた世阿弥は、不遇の時代も同じように耐えたのでしょうか。

世阿弥が厳しい時代に耐えて、能の普及に尽くしたからこそ、観世流の能は、現代でも鑑賞できるのかもしれません。

世阿弥によって能がどのように変わり、受け継がれたのでしょうか。

次の記事では、能という演劇の歴史についてもっと詳しくご紹介します。

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