世阿弥と能について知ろう
【PART.3】能の発展史
「世阿弥と能について知ろう」シリーズでは、能という舞台芸術の創始者である世阿弥に焦点を当て、世阿弥の著作の中から現代でも生かせる言葉や、世阿弥の生涯、能の歴史、能の鑑賞、世阿弥と能に関する本についてご紹介します。
この記事では、能の発展史についてご紹介します。 観阿弥が猿楽に伎楽や田楽など他の芸能の舞を取り入れ、世阿弥が優美さを足して演劇スタイルを確立したことや、豊臣秀吉や江戸幕府が能を庇護し、後継者たちに受け継がれていったことがわかります。
1. 世阿弥以前と以降の能について掘り下げる
前回の記事では、世阿弥についてご紹介しました。
今回の記事では、能について掘り下げていきます。
世阿弥によって能は他の芸能を含めた発展を遂げ、さらに優雅さが取り入れられます。
世阿弥以降も能は幕府から庇護を受け、独自に発展していくのです。
能という芸能について深く知っていきましょう。
2. 観阿弥・世阿弥以前の能
能以前にはたくさんの種類の芸能がありました。
猿楽は、もともと散楽と呼ばれ、ものまねや曲芸、奇術や舞踏といった、娯楽的で滑稽な芸能を扱っていました。
寺社の境内で演じられましたが、次第に街頭での公演も始まり、全国各地に広まると「猿楽」という名前に変化していきます。
この他にも、神楽(かぐら)、伎楽(ぎがく)、田楽(でんがく)という芸能があります。
神楽は、神に奉納するための歌舞で、主に神社での祭礼で行われます。
『古事記』『日本書紀』のアメノウズメの舞が起源とされており、平安時代に成立したとされます。
伎楽は、主に寺院での法会のために演じられた芸能。
管楽器や打楽器の伴奏で、仮面劇や無言劇を行い、獅子舞も演じられます。
田楽は、田の豊作を祈る農耕神事の芸能です。
鎌倉時代、室町時代には非常に人気になり、全国各地で盛んになりました。
猿楽、神楽、伎楽、田楽はそれぞれ専門の演者がおり、専門性を高めていました。
3. 観阿弥・世阿弥による能の創作
観阿弥と世阿弥は、能によってどのようなことを成し遂げたのでしょうか。
能が成し遂げたことは2つあげられます。
1つは他の芸能の舞を取り入れ、融合させたこと。
もう1つは、夢幻能という新たな分野を創作したことです。
他芸能の取り入れ
他の芸能を取り入れたのは観阿弥による偉業です。
滑稽な芸を主にしていた猿楽に対し、田楽や伎楽の歌舞や風流の要素を加えました。
これがこんにち、能と呼ばれる芸能となりました。
世阿弥は観阿弥の作った能に優雅な美しさを取り入れ、芸術性を高めました。
観阿弥が足利義満将軍に注目される能を作り、さらに世阿弥が能を世に広めることで世間の人気を集めていきました。
観阿弥と世阿弥が作った能は観世流と呼ばれ、後世へと受け継がれていきます。
夢幻能
世阿弥が能で確立した舞台芸能のスタイルの一つが、夢幻能というものです。
記事中でも何度か触れましたが、夢幻能には決まった型があります。
・二部構成
前場と後場に分かれる。
前場ではワキ(相手役)が訪れた場所にシテ(主役)が現れ、土地に関する過去の話が語られる。
後場では、シテが過去のことを語り舞う。
・幽霊が登場する
シテは幽霊である。
前場ではワキに語ったあと、「自分は実は幽霊である」と言い、退場する。
後場では再び登場し、過去のことを想い歌舞したりする。
夢幻能として代表される作品は『井筒』、『清経』、『江口』などがあります。
『井筒』は、旅の僧の前に在原業平の妻の幽霊が現れ、回想や舞をします。
世阿弥が自ら最高傑作に上げている劇です。
『清経』は、前場後場に分かれず一場面形式で、平清経の妻が見た夢で清経の死が語られます。
『江口』は、江口という遊里にいる遊女と、旅の僧が出会います。
遊女が今までのことを語ったのち、普賢菩薩として白象に乗って昇天します。
場面が数多くあり、見応えのある劇です。
4. 世阿弥以降の能の発展
世阿弥以降も能は発展を続けます。
足利義持の恩寵を受けた音阿弥による観世流、世阿弥の娘婿である金春禅竹が引き継ぐ金春流などが能の代表的な流派として室町時代で活躍しました。
応仁の乱以降は、観世流の観世信光(のぶみつ)・長俊(ながとし)、金春流の金春禅鳳(ぜんぽう)らが、公家や武家ではなく、一般民衆からの支持を得ようとして成功し、広まっていきます。
質的な面では、謡や舞、型や囃子などが定まっていきます。
安土桃山時代
能に大きな変化が起こったのは、豊臣秀吉が政権を持った安土桃山時代。
秀吉は晩年、能に夢中になり、自ら稽古に参加したり、1594年には天皇の住まいで能の催しをしたりと、かなりのめり込んでいました。
さらに、贔屓にしていた金春流をはじめ、観世・宝生(ほうしょう)・金剛(こんごう)の当時大和四座と呼ばれた一座の役者に米の給与を与えました。
秀吉の贔屓に支えられ、能はこんにちでも演じられる日本の伝統芸能になったといえます。
江戸時代
江戸時代になると、能と政権との関係はさらに密接になります。
能は式楽という、幕府が儀式に用いる正式な芸能と定められました。
能は上流階級が演じる娯楽となり、能役者は上流階級の師範を務めました。
能役者は給与を与えられ、住む場所には困りませんでしたが、その代わり、幕府や藩から厳格な監視をされました。
また、能は民衆にも広まり、詞だけの謡(うたい)はたくさんの人に歌われました。
能と同じく、猿楽を祖にした滑稽な芸を演じる狂言も同様に庇護され、流派が生まれていきます。
近代(明治〜昭和)
明治になると幕府が倒れ、能の庇護者がいなくなります。
一時は職を離れる能役者も多く、存続の危機が迫りましたが、岩倉具視や華族などが庇護者となり、立て直すことができました。
しかし、近代以降、能は戦争に翻弄されるようになります。
日清戦争、日露戦争中は、政府からの検閲が入るようになり、皇族をメインとした物語の公演が難しくなると、長らく作られなかった新作能が作られるようになります。
第二次世界大戦では、能役者の損失など、大きな打撃を受けました。
能は少しずつ復活していき、地道な普及を続けて行った結果、現在ではユネスコの「無形文化遺産」の一つとして登録されています。
5. 観阿弥・世阿弥の能の偉業を、後継者たちが伝えていった
観阿弥によって猿楽に神楽や田楽、伎楽が取り入れられました。
世阿弥はこの能に優美さを足していきます。
さらに、世阿弥は夢幻能を創作することで能の演劇スタイルを確立します。
世阿弥が作った能は、その後も流派ができつつ、日本の伝統芸能として発展を遂げます。
能の歴史を概観してみると、観阿弥と世阿弥の偉業は非常に大きいといえます。
そして、時の人の庇護や、後継者たちの絶え間ない努力によって、能は受け継がれてきたのです。
次回は能という演劇の内容や、鑑賞の仕方などをご紹介します。
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